2023年10月15日日曜日

226 別子:海嶺からのキースラガー

 別子鉱山は、江戸時代から昭和まで、長期間、採掘され続けました。現在は稼働しておらず、鉱山は廃墟となっています。鉱山跡の巨大さ、壮大さから、かつての繁栄ぶりがうかがえます。


 夏は、暑さを避けて調査を中断していたのですが、8月下旬から再開しました。城川から近い、愛媛県内の石鎚山周辺を巡ってから、別子へと向かいました。別子へは何度か訪れていますが、再訪です。台風の影響で、時々激しい雨が降り、蒸し暑い日も続いていました。
 四国山地から流れてきている国領(こくりょう)川が、新居浜へ流れ込みます。国領川が、別子鉱山の精錬された粗鉱を送り出す経路になりました。今回は東平(とうなる)を訪れました。東平は、かつては鉱山町として栄えていたのですが、現在は観光施設として残されていますが、居住者はいません。
 県道44号から、脇道に入って東平へ向かう道は、狭いところばかりで、車がすれ違えるところが限られています。自家用車で向かうのは、注意するように書かれていました。その代わり、別子マイントピアから、ツアーバスが出ているので、それを使うことを推奨しています。
 東平ははじめてなので、ツアーに申し込んでいくことにしました。ツアーバスでは、対向車を待機させるために先導車が走ってくれます。当日は、台風の影響で時々激しい雨となりました。そのおかげで気温も低目で助かりました。ガイド付きのツアーだったので、東平の歴史や施設など、よくわかりました。
 別子鉱山は、長い歴史を持っています。岡山で鉱山を営んでいた住友が、1690(元禄3)年、四国山地に有望な鉱脈があることを聞きつけました。手代一行を派遣して探索したところ、銅山川の源流に、鉱脈を発見しました。銅山川は吉野川の大きな支流となっています。
 鉱脈は、あまりに有望なので、発見に歓喜したことから、「歓喜間歩(まぶ)」と呼ばれています。「間歩」とは坑道のことです。鉱山は、標高1200mの山奥でしたが、一気に体制を整えて、翌年から採掘が開始されました。発見から5年後の1695年には、2700人が暮らす町になっていきました。歓喜坑のすぐ脇に歓東坑もつくられ、鉱石は谷の下流で精錬されていました。
 別子鉱山は、中央構造線のすぐ北側の低温高圧条件の変成作用を受けた三波川変成帯の中にできています。別子の鉱床は、薄い層として銅を含んだ硫化鉱床(層状含銅硫化鉄鉱床、キースラーガーと呼ばれています)になっています。
 鉱床は、緑色片岩の片理面に平行にできています。地質構造(向斜と呼ばれるもの)の影響も受けています。鉱床も、同じ変成作用や変形作用を受けていることから、三波川変成岩ができる前にはすでに鉱床が形成されていたことになります。かなり初期からできていた鉱床となります。
 三波川変成岩のもと(原岩)は、海洋地殻とその上にたまった堆積岩です。オフィオライトと呼ばれているものです。玄武岩の海底火山活動に関連されたものではないかと推定できます。
 現在の海嶺では、活発に火山噴出が起こっています。それに伴って熱水噴出孔が多数できているのが、潜水艇で観測されています。熱水噴出によって硫化物の沈殿物が形成されていることから、これがキースラガーの起源だと考えられています。
 似たタイプの鉱床が、三波川変成帯の中だけでなく、秩父帯や四万十帯、他の地域の舞鶴帯、阿武隈帯など各地でも見つかっています。いずれも海洋地殻やオフィオライトが原岩となっている地域です。ただし、多くの鉱床は、銅の含有量が少ない(低品位と呼びます)ものがほとんどです。
 別子の鉱床は、銅や金属の含有量が多くなっていること(高品位と呼ばれる。数%程度、多いものだと20%)が大きな特徴となります。住友の鉱山として、1691年の開坑から1973(昭和48)年の閉山まで、283年間、掘り続けられました。非常に埋蔵量の豊富な鉱山だったことになります。世界的にも有名で、典型的な特徴をこっていることから「別子型鉱床」とも呼ばれています。
 東平は、別子鉱山のかつての中心地だったところで、1916(大正5)年から1930(昭和5)年まで採鉱本部がありました。東平でもっとも人口が多った時期は1926(昭和元年)で、930戸4180人が住んでいたそうです。鉱山関係者の住宅だけでなく、小・中学校や商店、神社、映画館もあったようです。現在では廃村となっていますが、繁栄の名残が各所に残されています。東平から見ると、遠くの山腹に、鉄道のためたに切り開かれた跡も残っています。
 残された鉱山跡や住居跡から、東平は「東洋のマチュピチュ」と呼ばれています。それが観光資源となっています。大規模に活動していた産業遺産は、その遺構の大きさが、かえって栄光盛衰の侘しさを増していくようです。兵(つわもの)どもが夢の跡、でしょうか。

・三大銅山・
日本では、足尾(栃木)、日立(茨城)、
そして別子が、三大銅山と呼ばれています。
大規模な鉱山があると、
周辺では環境問題が起こりがちです。
燃料として森林の伐採が進むと、
周りははげ山になります。
激しい雨や台風があると、
地すべり、土石流などの災害が起こります。
煙害や亜硫酸ガスによる大気汚染、酸性雨も起こります。
明治27年には、銅山支配人の伊庭貞剛は、
公害へ対処として、
大規模な造林を計画して植林しました。
で今では、はげ山の面影はありません。
別子は、早くから環境問題に取り組まれてきたところでした。

・別子銅山記念館・
当日は、台風による雨だったので、山間部の調査は諦め、
別子鉱山関係の観光施設を見て回りました。
マイントピア周辺にも施設が残されていて
観光できるようになっていました。
新居浜の近くには、大山積神社があり、
そのすぐ横には別子銅山記念館があります。
記念館の屋根は全面がサツキが、植栽されています。
別子鉱山の繁栄を象徴しながら
環境への歴史も反映しているようです。