2023年12月15日金曜日

228 屋島と五色台:カンカンと鳴る石

 讃岐はうどん県として有名ですが、庵治石やカンカン石でも有名です。讃岐はカンカン石の産地で、古くからその特徴を活かして利用してきました。カンカン石は、特別なでき方をした大地の証拠になります。


 香川は、かつては讃岐(さぬき)と呼ばれていました。瀬戸内海に面したとこに、高松がある讃岐平野があります。讃岐平野の後ろには讃岐山地、東に五剣山や屋島の山並みがあり、西には五色台があり、その間に位置しています。讃岐平野は、もともと瀬戸内には雨が少ない上に、三方が山に囲まれているので雨がさらに少なくなります。そのため、農作物を作るために、多数のため池がつくられています。
 讃岐山地の南には、中央構造線沿いに吉野川があり、さらに南には四国山地が東西に長く伸びています。中央構造線は香川の西側では瀬戸内海に近づくため、香川と愛媛の高縄半島の部分が、瀬戸内海に突き出ています。
 この突き出た地域は、花崗岩が分布している地域になっていることに関係しています。四国で花崗岩が瀬戸内側に広がっている地域の南方には、室戸岬と足摺岬として、太平洋側に出っ張っている地域と対応しています。以前のエッセイ(221しまなみ海道:花崗岩の産状2023.05.15)で説明したように、花崗岩マグマが地表付近まで上昇している影響ではないかと考えられます。
 そこに、後に中央構造線が活動して(約300万年前から現在まで)、盛り上がって讃岐山地ができました。中央構造線の北側にある讃岐山地は、白亜紀末の海底で堆積した和泉層群からできています。約200万年前ころから隆起したと考えられています。
 讃岐平野の東西にある山地は、花崗岩と火山岩からできています。花崗岩は、領家帯に属し、白亜紀に活動した深成岩です。讃岐平野の東の小剣山の周辺には、庵治(あじ)と呼ばれ、良質の花崗岩がとれることから、現在でも石工が盛んです。
 火山岩は中新世に活動したもので、花崗岩に上に噴出しました。1300万年前に活動した火山岩は、屋島と五色台にあり、両者とも山の上部が平坦になっていて、周りは急な崖になっています。このような地形は、上にある水平な固い溶岩の部分は侵食には強く残っていき、周囲の柔らかい花崗岩の部分は激しく侵食されて急崖になっています。このように侵食差がある「差別侵食」によってテーブル状の地形をメサ(mesa、スペイン語でテーブルの意味)と呼びます。
 屋島では、花崗岩の上に一部は凝灰岩が挟んでいますが、安山岩質溶岩があります。五色台では花崗岩の上に安山岩質溶岩がありますが、間に凝灰角礫岩、凝灰角礫岩などを間に挟んでいます。
 これらの安山岩質マグマには特徴があり、サヌカイト(あるいは讃岐岩)や類似したものはサヌキトイドと呼ばれるもので、讃岐に特徴的に見つかったことから、明治時代のナウマンが命名したものです。地元では、サヌカイトや讃岐石と呼ばれ、各地で目にします。
 サヌカイトは、マグネシウム(Mg)が多い安山岩(高マグネシウム安山岩)と呼ばれます)で、古銅輝石(ブロンザイト bronzite)という鉱物を含んでいることも特徴です。一般に、マグネシウムが多いマグマは、珪酸(SiO2)が少ない玄武岩マグマなります。ところが、サヌカイトは、珪酸が多い安山岩の範囲(53から63%)にあるのに、マグネシウムが多いという特徴があります。このようなマグマは、マグネシウムの多い岩石(マントルのカンラン岩)が溶けてできたと考えられます。しかし、通常、マントルが溶けてできるのは玄武岩質マグマなので、安山岩質マグマができるためには、特別な条件が必要になりそうです。
 岩石を高温高圧にして溶かして結晶化させることで、どのような鉱物類(岩石)と一緒にあったかを調べることが実験(高温高圧実験)があります。その結果、高マグネシウム安山岩のマグマはカンラン岩と一緒にいること(共存といいます)できることがわかりました。さらに、カンラン岩に多くの水分が加わると、直接高マグネシウム安山岩のマグマができることも実験でわかってきました。
 高マグネシウム安山岩は、瀬戸内海に点々と見つかっていて、瀬戸内火山帯とも呼ばれています。他にも奈良の二上山も有名で、瀬戸内海沿いだけでなく、愛知県から四国、そして九州まで、中央構造線の北側に点々と活動しています。
 1700万年前ころ、日本海拡大が拡大して、大陸から日本列島が切り離され、フィリピン海プレートの海嶺(南北に伸びていた)の上にのし上がってきました。できてすぐの温かい海洋プレートに乗り上がりました。高マグネシウム安山岩のマグマは、水分を含んだ温かい海洋プレートが溶けてできたのではないかと考えられます。高マグネシウム安山岩は、非常に特異な地質条件が生まれた時にマントルでできました。
 サヌカイトは、結晶化をあまりせず、ガラス質の基質になっています。割れ口が鋭くなることから、縄文時代から弥生時代には石器として用いられてきました。非常に緻密で、叩くの金属質のカンカンといういい音がすることから「カンカン石」と呼ばれ、土産物にもなっています。
 サヌカイトは、もともと限られた地域に分布する火山岩です。さらに、いい音のするカンカン石の産地は限られています。カンカン石は特別な石です。カンカンという音には、古い時代の特別なマントルからの響きがあるのかもしれませんね。

・正式名称・
IUGA(が国際地質科学連合)では
化学組成にしたがって、
火成岩の分類はおこなうことにしました。
サヌカイトは、正式には、
単に安山岩か、高マグネシウム安山岩
という分類名になります。
また古銅輝石という鉱物名も
正式には使われなくなりました。
頑火輝石(エンタタイト)から
鉄珪輝石(フェロシライト)を
両端の成分として混じったもの(固溶体)として
表現されるようになりました。
科学において一般化や普遍化は、
重要になりますが、
過去の文化や歴史も消えるようで
少々寂しく感じます。

・石の民俗資料館・
庵治の近くに
石の民俗資料館もありましたので、
見学にいきました。
9月上旬の暑い時期の平日だったためか
見学する人も少なく、
落ち着いてみることができました。
昔の石工たちの技術の凄さを
感じることができました。

2023年11月15日水曜日

227 野島断層:地層の分裂と連続

 兵庫県南部地震で大地が動き、各地で地層が壊されきました。大地の動きは地表に現れ、断層として記録されました。淡路島は、かつては周辺地域と連続してたのですが、大きな断層で分断されてきました。


 夏の終わりに、兵庫県の淡路島にいきました。淡路島を訪れるのは、初めてのことでした。神戸淡路鳴門自動車道で徳島から、大鳴門橋を通り、淡路島の北方で降りました。明石海峡をみながら、淡路島を2日間かけて一周しました。
 淡路島は、明石海峡大橋で神戸と繋がっているので、京阪神からのドライブで多くの人がきているようです。若者が好むところも多数あるようで、行列ができている店が、東側の道路沿いにいくつもありました。
 淡路島の東側を回ったのは、北西にある淡路市にある野島断層を見学することが目的でもありました。野島断層を見る施設は、正式には「北淡震災記念公園 野島断層保存館」といいます。
 この断層は、1995年1月17日午前5時46分、日の出前に発生した兵庫県南部地震のときにできたものです。神戸の被害や火災、横倒しになった高速道路などニュース映像として、何度繰り返されています。神戸の被害が中心に流れることが多く、それ以外の地域は、あまり話題になることはありませんでした。しかし、「阪神・淡路大震災」の名称のとおり、淡路島の被害も、大きいものでした。
 震度7をはじめて適用された地震となりました。震度7も広域で記録されるような大きな地震でした。戦後から兵庫県南部地震までは、大きな被害をもたらす地震は少なかったでのすが、その後、2004年の新潟県中越地震、2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、2016年の熊本地震、2018年の北海道胆振東部地震で、次々と、震度7が観測されてきました。そのような傾向から、地震の活動期が入っているともいわれています。
 兵庫県南部地震のエネルギーは、マグニチュード7.3という大きなものでした。震源は、淡路島北部の明石海峡で、深さ16kmで起こったものでした。震源が神戸や淡路島に近いところで、活断層による直下型地震となりまします。新潟県中越地震、熊本地震、北海道胆振東部地震も直下型地震でした。このような活断層による直下型地震は、津波などの災害はあまりないのですが、激しい揺れによる被害が大きくなります。
 さて、野島断層保存館は、実際の断層をそのまま保存しています。横ずれと上下のズレによってできた地形ができ、保存館には、その断層が残され、保存されています。断層を掘ってあるトレンチも展示され、断層による地下までのずれが観察できました。
 野島断層の施設内には、断層でずれた花壇のレンガや塀、また家屋の中で起こったズレもそのまま保存されています。「神戸の壁」と呼ばれるものがありました。昭和2年頃に、神戸の公設市場で延焼防火壁として建てられた壁で、大震災でも倒れず、焼けずに残っていました。それが、ここに移設されています。
 淡路島は、ご存知のように、四国、中国、近畿の間、瀬戸内海と太平洋の間にあります。なぜここに島があるのでしょうか。淡路島の南北の長さが50kmほどですが、北部で幅が狭く5kmほどですが、南は広がっており20kmになります。北部には山地があり、南部にも山地が東西に広がっています。
 地形は地質を反映しています。淡路島の北の山地は、神戸の六甲山地を構成している後期白亜紀の花崗岩(新期領家帯)に連続しています。ただし、明石海峡の陥没したため分断されています。花崗岩は、淡路島の北部の基盤の岩石となっており、周辺には中新世の堆積岩(神戸層群)があります。
 淡路島の南側には、諭鶴羽(ゆづるは)山地があり、紀伊半島の和泉山地から四国の讃岐山地まで続く山並みがあります。この山地は白亜紀後期の堆積岩(和泉層群)が分布しています。そして、淡路島全域のすべてを不整合で覆っているより新しい地層(大阪層群)が広く分布しています。淡路島の和泉層群の南側の海の中には、中央構造線が通っています。
 淡路島は、今では橋によって神戸と四国に繋がっているのですが、地層では昔から神戸と四国、紀伊半島も連続していました。ただし、断層によって四国や本州と切り離されて島となりました。淡路島周辺には、昔から断層が形成され、現在も活動して地震を発生しています。
 兵庫県南部地震のとき、神奈川県の博物館準備室にいました。直接の被害はなかったのですが、朝のニュースで、大きな地震が神戸であったことはわかったのですが、実態がまだ不明でした。親族が京都にいたので、すぐに電話をしました。大きな揺れで驚いたが、家族も家も大丈夫であると聞いて一安心しました。しかし、その後で電話しようとすると、繋がらなくなりました。
 間接的な影響もありました。博物館で用いる特別な装置の部品の一部は、当時の大阪周辺の下請け工場で作られていたそうです。特別な技術を持った工場も多く、被害を受けていたら、製品の完成が遅れかもしれないといわれていました。しかし、幸い大きな被害がなく、予定通りに開館にこぎつけられました。
 その後も、震災は繰り返されています。その度に、人はこれまでの教訓を活かし、少しでも早い復興を目指してきました。自然災害による物質的な復興は費用と手間をかければできますが、人の心や傷ついた記憶の回復は難しいものです。人の心を癒やし、傷ついた記憶を治めるのには、人の心からの手当が必要なのでしょうね。

・今シーズン最後の調査・
先週末に調査にでかけたので、
予約配信としています。
今シーズンの調査は、これが最後になります。
晴れの日には大量の雪虫の発生、
曇の日には氷雨になり雪が降りそうな気配があります。
予約配信なので先週末の天気は不明ですが、
週末に寒波がきそうなので少々心配です。
事前に日程を組んでいるので、
出かけるしかありません。
心配しても仕方がありません。
せいぜい楽しんでいければ思っています。

・4年制大学・
11月は大学の後期の折返しとなります。
学生たちも、落ち着いて授業が受けられる時期でもあります。
3年生は就活が前倒しになってきています。
3年生には落ち着かない学生もいるかもしれません。
教職につく学生も、3年生のうちから
筆記試験が受けられる制度が
導入されるようになりました。
はじまったばかりなので、
どの程度の人数が受験をするか不明ですが、
落ち着かなくなってきています。
もう少しじっくりと大学での学びを続ける方が
4年制大学にいる意味がありそうなのですが。

2023年10月15日日曜日

226 別子:海嶺からのキースラガー

 別子鉱山は、江戸時代から昭和まで、長期間、採掘され続けました。現在は稼働しておらず、鉱山は廃墟となっています。鉱山跡の巨大さ、壮大さから、かつての繁栄ぶりがうかがえます。


 夏は、暑さを避けて調査を中断していたのですが、8月下旬から再開しました。城川から近い、愛媛県内の石鎚山周辺を巡ってから、別子へと向かいました。別子へは何度か訪れていますが、再訪です。台風の影響で、時々激しい雨が降り、蒸し暑い日も続いていました。
 四国山地から流れてきている国領(こくりょう)川が、新居浜へ流れ込みます。国領川が、別子鉱山の精錬された粗鉱を送り出す経路になりました。今回は東平(とうなる)を訪れました。東平は、かつては鉱山町として栄えていたのですが、現在は観光施設として残されていますが、居住者はいません。
 県道44号から、脇道に入って東平へ向かう道は、狭いところばかりで、車がすれ違えるところが限られています。自家用車で向かうのは、注意するように書かれていました。その代わり、別子マイントピアから、ツアーバスが出ているので、それを使うことを推奨しています。
 東平ははじめてなので、ツアーに申し込んでいくことにしました。ツアーバスでは、対向車を待機させるために先導車が走ってくれます。当日は、台風の影響で時々激しい雨となりました。そのおかげで気温も低目で助かりました。ガイド付きのツアーだったので、東平の歴史や施設など、よくわかりました。
 別子鉱山は、長い歴史を持っています。岡山で鉱山を営んでいた住友が、1690(元禄3)年、四国山地に有望な鉱脈があることを聞きつけました。手代一行を派遣して探索したところ、銅山川の源流に、鉱脈を発見しました。銅山川は吉野川の大きな支流となっています。
 鉱脈は、あまりに有望なので、発見に歓喜したことから、「歓喜間歩(まぶ)」と呼ばれています。「間歩」とは坑道のことです。鉱山は、標高1200mの山奥でしたが、一気に体制を整えて、翌年から採掘が開始されました。発見から5年後の1695年には、2700人が暮らす町になっていきました。歓喜坑のすぐ脇に歓東坑もつくられ、鉱石は谷の下流で精錬されていました。
 別子鉱山は、中央構造線のすぐ北側の低温高圧条件の変成作用を受けた三波川変成帯の中にできています。別子の鉱床は、薄い層として銅を含んだ硫化鉱床(層状含銅硫化鉄鉱床、キースラーガーと呼ばれています)になっています。
 鉱床は、緑色片岩の片理面に平行にできています。地質構造(向斜と呼ばれるもの)の影響も受けています。鉱床も、同じ変成作用や変形作用を受けていることから、三波川変成岩ができる前にはすでに鉱床が形成されていたことになります。かなり初期からできていた鉱床となります。
 三波川変成岩のもと(原岩)は、海洋地殻とその上にたまった堆積岩です。オフィオライトと呼ばれているものです。玄武岩の海底火山活動に関連されたものではないかと推定できます。
 現在の海嶺では、活発に火山噴出が起こっています。それに伴って熱水噴出孔が多数できているのが、潜水艇で観測されています。熱水噴出によって硫化物の沈殿物が形成されていることから、これがキースラガーの起源だと考えられています。
 似たタイプの鉱床が、三波川変成帯の中だけでなく、秩父帯や四万十帯、他の地域の舞鶴帯、阿武隈帯など各地でも見つかっています。いずれも海洋地殻やオフィオライトが原岩となっている地域です。ただし、多くの鉱床は、銅の含有量が少ない(低品位と呼びます)ものがほとんどです。
 別子の鉱床は、銅や金属の含有量が多くなっていること(高品位と呼ばれる。数%程度、多いものだと20%)が大きな特徴となります。住友の鉱山として、1691年の開坑から1973(昭和48)年の閉山まで、283年間、掘り続けられました。非常に埋蔵量の豊富な鉱山だったことになります。世界的にも有名で、典型的な特徴をこっていることから「別子型鉱床」とも呼ばれています。
 東平は、別子鉱山のかつての中心地だったところで、1916(大正5)年から1930(昭和5)年まで採鉱本部がありました。東平でもっとも人口が多った時期は1926(昭和元年)で、930戸4180人が住んでいたそうです。鉱山関係者の住宅だけでなく、小・中学校や商店、神社、映画館もあったようです。現在では廃村となっていますが、繁栄の名残が各所に残されています。東平から見ると、遠くの山腹に、鉄道のためたに切り開かれた跡も残っています。
 残された鉱山跡や住居跡から、東平は「東洋のマチュピチュ」と呼ばれています。それが観光資源となっています。大規模に活動していた産業遺産は、その遺構の大きさが、かえって栄光盛衰の侘しさを増していくようです。兵(つわもの)どもが夢の跡、でしょうか。

・三大銅山・
日本では、足尾(栃木)、日立(茨城)、
そして別子が、三大銅山と呼ばれています。
大規模な鉱山があると、
周辺では環境問題が起こりがちです。
燃料として森林の伐採が進むと、
周りははげ山になります。
激しい雨や台風があると、
地すべり、土石流などの災害が起こります。
煙害や亜硫酸ガスによる大気汚染、酸性雨も起こります。
明治27年には、銅山支配人の伊庭貞剛は、
公害へ対処として、
大規模な造林を計画して植林しました。
で今では、はげ山の面影はありません。
別子は、早くから環境問題に取り組まれてきたところでした。

・別子銅山記念館・
当日は、台風による雨だったので、山間部の調査は諦め、
別子鉱山関係の観光施設を見て回りました。
マイントピア周辺にも施設が残されていて
観光できるようになっていました。
新居浜の近くには、大山積神社があり、
そのすぐ横には別子銅山記念館があります。
記念館の屋根は全面がサツキが、植栽されています。
別子鉱山の繁栄を象徴しながら
環境への歴史も反映しているようです。

2023年9月15日金曜日

225 石鎚コールドロン:多様な地質

 面河渓から石鎚へスカイラインと進み、瓶ヶ森へはUFOラインを通りました。車でいけるコースですが、中央構造線、石鎚コールドロン、火砕岩、花崗岩、礫岩、三波川変成岩など、多彩な地質を見ることができます。


 8月の下旬から後半の野外調査を再開しました。まずは、久万高原を通り県道12号西条久万線で面河渓に向かいました。山岳博物館は休館日だったので、さらに奥に向かい、一台しか通行できない狭い道を抜けて、行き止まりにある面河渓に到着しました。この日は、雲が流れていましたが、晴れ間が見える天気でしたが、観光客も少なく、落ち着いて散策できました。暑かったのですが、渓流沿いの涼やかな風が心地よかったです。
 石鎚のある地域は、大きな地質区分では、三波川変成帯になっているのですが、石鎚周辺は「石鎚コールドロン」と呼ばれる、新生代の約1500万~1400万年前(新第三紀中新世)の火成岩類と堆積岩が分布しています。
 コールドロンとは、地下深部にあったマグマだまりが陥没してできたもとと考えられるものをいいます。激しい火山活動でマグマだまりが空になってくると、地下に空洞ができ、そこが陥没していきます。それがカルデラとなります。新しい火山活動では、陥没地形が残されていて、カルデラと判別できます。ところが、時間が経過して、カルデラの地形が侵食されて明瞭でなくなり、陥没部の埋められていた部分が侵食されたり、深部のマグマだまりまで露出してくることがあります。そのように侵食されて地表にでてきたマグマだまりのうち、火山性の陥没構造をもったものをコールドロン(cauldron、大釜という意味)と呼びます。カルデラとは認めにくいものをコールドロンと呼んでいます。
 コールドロンには火山岩だけでなく、深成岩や火山噴出物も含まれているため、(火山‐深成)複合岩体となっていることもあります。火山岩と深成岩の関係やマグマだまりの形成過程の探求に重要な地質となります。カルデラの形成過程も、コールドロンから推定されてきたものです。
 石鎚コールドロンは有名で、その一部に四国最高峰の石鎚山(標高1982m)があります。形成過程は、1500万前ころから石鎚山周辺で火山活動からはじまります。環状に貫入したデイサイト質のマグマの岩脈を形成しながら、地表に噴出します。激しい火砕流を伴う大噴火がおこり、環状岩脈に沿って陥没が形成されます。それでカルデラが形成されたと考えられます。
 火山活動は継続して、カルデラは安山岩質マグマの火砕流堆積物(天狗岳火砕流堆積物)が埋めていました。この火砕流は分厚くたまり溶結凝灰岩となりました。石鎚山の西側に火砕流堆積岩が広域に分布しています。東側にはあまりありません。深部からまだマグマが上昇してきており、火砕流へと貫入していきます。それが花崗岩となりました。
 石鎚コールドロンは、きれいな丸い形状に分布しています。その中に、安山岩質の溶結火砕岩類と面河渓谷の花崗岩類があります。面河渓谷の河床をつくっている白っぽい岩石は、この花崗岩類です。この石鎚コールドロンから東の火砕堆積岩が広がっているのですが、その周辺には礫岩(久万層群)があちこちに分布しています。
 瓶ヶ森へ続く稜線は険しくなっていますが、瓶ヶ森山頂付近にはスプーンで削られたような、広く平らになってところがあります。礫岩の山なので、侵食には弱ためだと考えられます。それ以外の東側では、唐突に三波川変成岩に代わります。
 さて、瀬戸内海の面した西条から南側を眺めると、急傾斜の山並みが見えます。標高で1000mから2000m近くの山並みとなっています。そのような険しい地形は、中央構造線がつくった断層地形です。
 中央構造線は、1億年以上にわたって活動を断続的に続けている活断層です。ここ100万~200万年ほどは、右横ずれの運動をしていますが、垂直方向にも動いています。西条側から見ると石鎚は東に移動し、なおかつ隆起もしていることになります。石鎚周辺では、隆起速度は年間約2mmほどだと考えられています。
 面河渓からは、石鎚スカイラインを使って石鎚神社に向かいしました。早朝に出発したので、ここでやっと昼食となりました。その後、UFOラインと呼ばれる「いの町道瓶ケ森線」を通りました。UFOラインは、眺めがいいことで有名で、狭いところもあるのですが、多くの車、二輪車が通っています。しかし、土砂崩れの補修のため、通行できる時間が決まっており、タイミングが悪いと1時間近く待つことになります。店の人に、通行できる時間と確かめ、ちょうど昼休みで作業が中止され通行可能な時間のうちに、通るとにして進みました。噂通りの眺めのいい道でした。景色を楽しみにながら、ゆっくりといきたかったのですが、撮影だけを急いでして、通り抜けました。
 面河渓のルートから石鎚スカイライ、UFOラインは、石鎚コールドロンに関連した火成岩類と堆積岩、そして三波川変成岩、それらが中央構造線によって、落ち上げられている様子が見ていくことができます。

・調査再開・
8月は残暑が厳しく、天候も不順でしたが、
後半の野外調査を再開しました。
初日は、山の中なので天気を心配したのですが、
雲は時々かかっていたのですが、
山並みを眺めることができました。
山から降りたら、即座に
蒸し暑い空気が襲ってきました。
今年の夏は長く厳しいです。

・子持ち権現山・
子持ち権現山は、標高約1700mで、
険しい崖がUFO道路から見ることができます。
UFO道路は、瓶ヶ森へと続く
久万層群の分布域に沿って走っていきます。
約100mの崖は、久万層群に属する
礫岩からできているのが、遠目でもわかります。
そして途中からは三波川変成帯になります。
そこは土砂崩れ地帯になっていきます。

2023年8月15日火曜日

224 佐田岬:真夏の太陽と片岩

 佐田岬の先端にいく道には、海岸に出れるところや露頭が見られるところがあります。国道から県道になるとなかなか大変道でした。夏の真っ盛りに、佐田岬には、三波川変成岩を見るためにいきました。


 現在滞在している城川町の中心部には、国道197号線が通っています。この国道は、少々変わった道になっています。高知県高知市から大分県大分市までになっています。高知市、土佐市、須崎市、津野町、檮原町、鬼北町、そして西予市城川を通り、大洲市、八幡浜市から伊方町の佐田岬半島を通っています。ところが、伊方町三崎からは、海の道(海上区間)になっていきます。海の道は、民間の国道九四フェリーが運行していますが、夜間も動いています。海の道で九州の大分県佐賀関にいき、その先、大分市まで続きます。国道197号線は、海を通る道です。
 さて、国道197号を使って、7月の末、佐田岬にいきました。一番暑い時期ですが、晴れていたので、家内と一緒にでかけました。
 佐田岬半島の三崎までは、国道197号が使えます。三崎から先は、県道256号を進むことになります。佐田岬までは、県道256号の狭い道を進みます。そして行き止まりには、駐車場があり、そこからは1.8kmの山道を歩いて岬の先端までいくことになります。岬は観光地となっています。ところが、この山道も県道になっており、佐田岬のキャンプ場まで続いています。もちろん、歩道は車が通れる幅がない狭い山道です。
 この山道は、上り下りがあり、行きは下りが多いのですが、それでも暑い日なので、岬に着く頃には、汗だくになりました。帰りは、暑さでヘトヘトで駐車場に戻ってくることになります。サバティカルの最中に、佐田岬にはぜひ行きたかったのですが、再訪することはないはずです。暑かったのですが、先端までいってきました。
 以前来たときより、案内看板も充実しており、道もよくなっているように思えました。モニュメントや展望台などの施設も整備されていました。軍の施設の保存や維持もされています。道は整備されていましたが、春や秋の涼しい時なら良かったのですが、猛暑の時期の往復は厳しかったです。家内はヘトヘトになり、途中の道の駅で冷たいものを補給しました。
 佐田岬の先端は、御籠島(みかごじま)になっているのですが、島と半島の間を堤防でつなぎ、陸続きにされています。堤防の中には、「畜養池」という大きな生け簀のような施設になっています。ただし、この池は、2010年以降使われていないようです。現在もきれいな海水が溜まっており、いい施設なので、もったいないような気がしましたが。
 佐田岬半島の海岸は、切り立った崖になっていることが多いのですが、入江になっているところが、いくつもあります。そこには小さな港がつくられています。入江のあるところは、特徴的な地形になっています。
 佐田岬半島は、大まかに見ると、直線的な地形で東西に細長く伸びています。全長は40kmほどになっていますが、広いところで幅が約6kmで、狭いところで1kmほどしかなく、細い半島です。西側半分は細く伸びた地形になっており、東側の半島は入り組んで、特に北側の海岸は入り組んでいます。そこに港がいくつもあります。この地形は、リアス海岸の特徴となっています。リアス式海岸は沈降地形なので、地質変動を受けているはずです。
 大きな地質変動は、北の瀬戸内海側の8km沖に中央構造線が走っているために起こっているようです。中央構造線は、西南日本を代表する大きな構造線で、全長400kmを超える右横ずれ断層です。
 半島の北側の海底に、中央構造線があります。その周囲には、沈降域や隆起域を伴った凹凸がいくつもあります。リアス式海岸の先に、東西に伸びる海底谷があり、その先に中央構造線があります。
 中央構造線の北と南では、全く異なった地質となっているので、その変位は非常に大きなものだと考えられます。北側は和泉層群と領家帯に、南側には三波川変成帯になっています。
 半島は、三波川変成帯になっており、主に緑色片岩からできており、一部に石灰質や泥質、砂質の片岩ところもあります。いずれも片岩で、ペラペラした岩石なので、地すべりを起こしやすくなっています。
 佐田岬の先端の御籠島で、観光施設があり、そこは今でも手がいれられていました。行った日に作業されている方がおられました。聞いたら、先端に開けられた洞窟に、日本軍の砲台のレプリカがあり、それを補修しているそうです。海に面しているので、定期的に手入れが必要だそうです。この暑い中歩いてくるのが大変だと思ったのですが、許可をもらって原付きバイクで、近くまで来ているとのことです。
 瀬戸内海の伊予灘は、おだやかにみえる海ですが、その底には巨大な構造線があります。その構造線が、半島の地形、特徴をつくっています。三波川変成岩からできた半島。岬の海岸で三波川変成岩をみました。三波川変成岩は夏の太陽に輝いていました。触ることもできないほど、熱くなっていました。この時期ですから仕方がないのでしょう。あまり長居すると、熱中症になってしまうかもしれません。無理せずに戻ることにしました。伊方には、四国電力の原子力発電所が、北の海に面してあります。戻りは、暑さでもうろうとしながら、そんなことを考えながら帰路につきました。

・軍の施設の記憶・
佐田岬の先端や御籠島には
第二次大戦時代の遺構が残されていました。
それらが観光用に整備されていました。
前回来たときは、三波川変成岩の記憶、
きれいな景観の記憶しかありません。
それは初春のせいだったのでしょうか。
今回は、暑い夏の日差しの中で見たためでしょうか。
昔の色褪せた映画のいち場面のように
記憶されていました。
すべて季節のせいなのでしょうか。

・お盆ですが・
お盆です。
今年は城川の自宅でじっとしています。
毎年、お盆だからといっても
なにもしないことが多いのですが、
コロナ禍もおさまり、
今年は人出が多くなっているようです。
あちこち、混んでいるので、
地元でのんびりとすることにしています。

2023年6月15日木曜日

222 土佐清水:足摺と唐人駄場

 土佐清水はジオパークに2021年に認定されました。新しいジオパークを見ることができました。土佐清水に分布するの花崗岩が、いくつかの名所をつくっています。その花崗岩には特別な特徴があります。


 ゴールデンウィーク明けの5月上旬に、高知の足摺岬を訪れました。この地は、何度も来ているのですが、久しぶりの気がします。この地は土佐清水がジオパークになりました。2015年から推進協議会が発足して活動をはじめて、2度の申請をしたのですが、認定が見送られて、2021年に3度目に日本ジオパークに認定されました。四国で3つ目、日本で44箇所目の認定地域となしました。
 ジオパークでは、いろいろな活動方法がありますが、地域の人たちが、身近な大地(地質)を理解して、行動や考え方を新たにして(教育)活動しきます。その魅力を訪れた人にも伝えていく観光活動にもつながっていくことになります。このような地質を中心に地域が活性化していくことが重要な目的となっています。
 土佐清水ジオパークは、「黒潮と共に生きる 漁師が生まれる大地の物語」をテーマとしています。中心となる施設が、足摺宇和海国立公園竜串ビジターセンター「うみのわ」が竜串にあり、その隣には足摺海洋館「SATOUMI(さとうみ)」も新しく開館しました。うみのわは、2020年5月に開館しています。しかし訪れたときに休館日だったので、見ることができず、残念な思いをしました。次の機会に訪れたいと考えています。
 パネルやパンフレットでは、市民にもわかりやすく土佐清水の全体的な歴史が示されています。大地の歴史には、大きく3つの段階があり、「深い海の記憶(3800万年前から)」、「浅い海の記憶(1700万年前から)」、「マグマの記憶(1300万年前から)」、そして現在へとつながると説明しています。
 「深い海の記憶」は、四万十層群の堆積の時代で、四国の南部に広く分布するフィリピン海プレートの沈み込みに伴う、付加作用でできた地層です。「浅い海の記憶」は、竜串の海岸に広がる三崎層群の堆積の時代で、浅海でできた地層です。そして「マグマの記憶」が、今回のテーマの花崗岩のことです。
 土佐清水の足摺岬周辺には、中新世の花崗岩が分布しています。この地は以前にも「21 足摺岬:岬の先端に不思議な石がある(2006年9月15日)」というエッセイを書いています。その中で、ラパキビ(rapakivi)花崗岩を紹介しています。
 ラパキビ花崗岩とは、アルカリ長石(割れ目の目立つ鉱物)の大きな結晶(斑晶といいます)の周りに斜長石(色や形状が異なった鉱物)が取り囲んでいる状態になっていることが特徴です。
 フィンランドで最初に記載され研究された岩石です。そのため、北欧の古い安定大陸に分布する岩石で、原生代中期(17億年前ころ)古いものが典型とされています。また、アルカリ長石が大きな斑晶(巨晶といいます)となっていて卵型になっています。他の地域でも同じ特徴をもった岩石が見つかっていますが、いずれの古い時代のものです。
 しかし、土佐清水では、新しい時代(新生代中新世)の岩石となります。また、アルカリ長石は、大きいのですが卵型ではなく、結晶本来の形(自形といいます)をしているようです。ただし、アルカリ長石が斜長石に囲まれているという特徴をもっているため、ラパキビ花崗岩と似ていると考えられます。
 このようなアルカリ長石の結晶の特徴は、結晶化した条件が変化し、ある時から結晶化できなくなり、マグマと反応して周りに斜長石が結晶化したことになります。
 そのようなできた方の説明として、2種類の組成の異なったマグマが混じった(マグマ・ミキシングと呼ばれます)というモデル、花崗岩マグマが圧力低下(温度は少し変化)によって結晶化の条件が変化したというモデル、マグマの流れでアルカリ長石の結晶が沈んで斜長石が付着したというモデルなどがあります。しかし、ラパキビ花崗岩の成因は、まだよくわかっていません。
 足摺岬周辺の火成岩は、全体としてみると、円形の分布をもった深成岩体(累帯状複合岩体)となっています。ただし、太平洋岸で南半分が切れています。火成岩ですが、何種類かのマグマが貫入していて、それが同心円状の構造をもっています。
 まず、中心部に花崗岩があります。そこでは種類や特徴の異なった花崗岩の仲間のマグマがいくつも貫入しています。ここでは、火山岩のアルカリ流紋岩や深成岩の閃長岩などがあり、マグマの活動の時期が何度かあったことがわります。しかし、いずれもアルカリ元素(KやNaのこと)が多いマグマからできた岩石になります。
 その外側に、鉄やマグネシウムの多いマグマからできた斑レイ岩やドレライトなどが、花崗岩に貫入している部分になります。白山洞門の付近ではドレライトが花崗岩に取り込まれているような産状が見られます。ここでは、内部にになかった玄武岩質のマグマが加わり、花崗岩質のマグマと一緒に活動しています。
 もっとも外側に、結晶の大きな(粗粒といいます)花崗岩があります。比較的均質な典型的な花崗岩からできています。このように足摺岬では、内側から外側へ3つの性質の異なった火成岩が分布しています。
 唐人駄場と呼ばれるところは、外側の花崗岩の分布地帯にあります。この地は、奥まって不便なところですが、風化して丸くなった花崗岩が、ゴツゴツと重なりたり割れていたりして、不思議な景観の地となっています。
 説明看板によりますと、海から見たとき、花崗岩が目印となっていたといわれています。千畳敷と呼ばれる平らに岩、鬼の包丁石と呼ばれる鋭角に切れた辺をもった岩、神の居場所など、奇岩があります。また縄文前期の遺跡があったそうです。昔の人もこの地を利用していたようです。このような丸い大きな石からできた地形は、花崗岩地帯にはよく見られます。花崗岩特有の風化によるものです。
 足摺岬は、土佐清水ジオパークの一部に過ぎません。四万十層群や三崎層群も、ジオパークでは重要なサイトになります。これらの地層のでき方はわかっていますが、足摺岬の複雑な花崗岩のでき方は、有名で多くの地質学者が見学に来ています。しかし、まだまだ謎が残されています。今後ジオパークが中心になって解明が進めばいいと思います。

・今後に期待・
土佐清水は、もともと足摺岬や竜串など
名所があるため、観光には有利な地でした。
加えて、地質に興味をもった人も訪れていました。
ジオパークに認定されると、露頭を見にいくとき、
駐車場や案内板、ビジターセンターなどの施設、
また、関連資料などが整っていきます。
地質を見て回るときに非常に便利になっていきます。
まだ、認定されて間もないので、
今後整備されていくことを期待してます。

・唐人・
唐人駄場の説明によると、
唐人とは光り輝く紙の居場所
という意味があると書かれていました。
沖からみると光り輝くことがあり
目印になったということだそうです。
唐人という意味を調べたのですが
いずれも唐の人、転じて異国人
という意味だと書かれているものばかりでした。
光り輝くという意味は
見つけることができませんでした。
特別な由来があるのでしょうね。

2023年5月15日月曜日

221 しまなみ海道:花崗岩の産状

 しまなみ海道を利用して、主に芸予諸島に分布する領家帯の花崗岩類を見てきました。瀬戸の島々には、それぞれに特徴があります。しかし花崗岩の島という共通点もありました。



 4月下旬に、しまなみ海道を使って、愛媛から広島へ野外調査に出ました。しまなみ海道は、鉄道は走っていません。本州と四国を結ぶ列車は、香川県坂出と岡山県倉敷をむすぶ、瀬戸中央自動車道の下を通る瀬戸大橋線です。そこは何度か通ったことがあります。今回、しまなみ海道をはじめて通りました。
 しまなみ海道のある愛媛の高縄半島と、瀬戸大橋のある香川と児島半島は、海が狭くなっています。ここだけでなく、瀬戸内海の地形は不思議な特徴があります。島の多いところと少ないところが、はっきりと分かれています。海が狭くなっていて「瀬戸」と呼ばれ、島が少ないところは「灘」と呼ばれています。
 島の多いところは、西から、防予諸島、芸予諸島、塩泡諸島、備讃諸島となっています。島が少ないところは、西から伊予灘、斎灘(いつきなだ)、燧灘(ひうちなだ)、播磨灘となっています。しまなみ海道は、大小の島が多数あるため、至る所に瀬戸があります。この瀬戸は海流が激しく、航海の難所となっています。
 さて、今回の調査の目的は、花崗岩類を見るためです。瀬戸内海沿岸から中国地方にかけて花崗岩類が広く分布しています。瀬戸内海での花崗岩の分布は不思議です。瀬戸内海の島は大部分が花崗岩からできています。瀬と灘が繰り返していているということは。花崗岩が広く、たくさん分布しているところが瀬で、花崗岩がないところが灘になっています。
 花崗岩は、大陸や列島をつくる岩石ですが、マグマが地下深部でゆっくりと固まった深成岩です。もともとは地下深部にあった岩石が、地表に出ているということは、上にあった表層の地層や岩石が大量に侵食されたことになります。そのためには、長い時間での侵食が必要になります。中国から瀬戸内は、古い岩石からできていますでの、激しい侵食があったことになります。
 さらに不思議なことは、四国の形が、瀬戸内海に花崗岩が瀬戸として分布しているところに対応して、海側にでっぱった地形になっています。防予諸島と芸予諸島の南側には足摺岬が、塩泡諸島、備讃諸島の南には室戸岬があります。四国の西部と東部が海にでっぱり、四国中部はくぼんでいます。四国の東西側は、豊後水道と紀伊水道と切れ目があります。
 このような特徴的な地形は、地下深部の地質が反映していると考えられます。多分、地下深部に花崗岩が広がっているところが、でっぱりとなり、あまり広がっていないところがくぼみとなっていのではないでしょうか。花崗岩は他の岩石(海洋地殻やマントルの岩石)と比べると、密度が小さくなっています。そのため、地下に花崗岩があれば、上昇する条件ができます。
 ただし、四国の中央部と東西に走る大断層である。中央構造線や仏像構造線があり、地下まで伸びているはずなので、それらと花崗岩の関係がどうなっているかも重要でしょう。
 さて、ここまで大局的で推測の話でしたが、次は花崗岩の調査の中で、いくつか興味を惹いたことがありました。石と人、そして10mほどの小さい露頭です。
 人が石(花崗岩)と密接に重なり合って生きているということです。花崗岩は、古くから石材としても利用されています。それは運搬しやすい島や海沿いの露頭が有利で、昔から今でも、石材採掘場が島々にはあります。花崗岩で風化に弱いところは、真砂化して白砂になってなだらか地形になります。風化に強い部分は、急な傾斜の地形となります。例えば尾道では、花崗岩の山から露岩がでている急な斜面になっています。海岸沿いには、少しの平野に広がっています。平野には住居や海運、造船の施設が密集しています。それでも人が生活するには足りないので、急斜面にも住居やお寺があります。有名な千光寺も、大きな花崗岩の岩を取り込んで建てられています。
 もうひとつ興味を惹いたのは、大久野島でみた露頭です。大久野島は周囲4kmほどの小さい島ですが、かつては日本軍が要塞化していた島です。広島や呉などの施設を守るためにだそうです。毒ガス工場の後や施設もありました。そこに花崗岩の切り立った10mほどの平面の露頭がありました。人が切り開いとところでしょうか。
 露頭は、花崗岩からできていますが、貫入岩がいくつかあり、その関係が面白かったです。
 粗粒の花崗岩の中に、細粒のデーサイトの岩脈が何本も貫入していました。地下でゆっくりと固まり冷えた花崗岩に、水平方向に40から50cmほどの幅のデーサイトが貫入していました。その貫入岩が冷えたあと、ほぼ垂直に、10から20cmほどの幅で、途中で枝分かれしたデーサイトと、数cmほどの細いデーサイトが貫入していました。
 このような貫入の後先が、なぜわかるのでしょうか。まず、岩石の結晶の大きさは、ゆっくりと冷えたマグマは粗粒になります。冷たいところに貫入したマグマは細粒になります。冷えた岩石に接する部分は、急冷され、結晶もできないガラス状(急冷縁といいます)になります。岩石は比熱が大きいので、熱が伝わりにくく、内部になっていくと温度が保たれ、結晶が大きくなってきます。しかし、深成岩ほどには大きな結晶となりません。また、細い貫入岩同士では、後の岩石が、先の岩石を通り抜けます。その通り道は割れ目(断層)なので、前の貫入岩が割れたように見えます。そして割れ目には急冷縁ができます。このような岩石同士の産状から、前後関係を読み取ることできます。
 雨の降る中でしたが、露頭の産状を観察して、貫入関係を読み取っていました。この露頭は、貫入関係を考えるのに適したものになっていました。

・水軍と海賊・
戦国時代には村上水軍と呼ばれる
海の民が暮らしていました。
因島(いんのしま)、能島(のしま)、
そして来島(くるしま)に分かれていました。
水軍は、もともとは「海賊」といっていました。
略奪もやっていたようですが、
瀬戸を通るときに通行料を徴収し、
従ったものは、無事に通行させたり
案内についたりしていたようです。
しまなみ海道には、
村上海賊の城や博物館もあり、
当時の様子を知ることができました。

・村上海賊の娘・
大島で村上海賊のミュージアムがあり、見学しました。
入口のモニュメントに「村上海賊の娘」の石碑があり
小説のことを、ふと思い出しましたた。
「村上海賊の娘」という小説は、
以前からこの本は知っていたのですが、
村上海賊の本拠地が
小さな能島であることははじめて知りました。
島は、瀬戸の中にあり、
潮流が激しく、島全体が要害とでき、
守りやすかったようです。
そんなことを知ったため、
小説を買って読みはじめました。

2023年4月15日土曜日

220 城川の地質:黒瀬川のほとりにて

 愛媛県南西部に位置する西予市に滞在しています。2010年にもサバティカル(研究休暇)で1年間滞在したのですが、今回は半年間を過ごします。滞在地でもある城川とその周辺の地質の概要を紹介しましょう。


 11年ぶりに西予市城川町に戻ってきました。サバティカルという大学の研究休暇の制度を利用して、4月から半年間、この町で過ごすことになります。できれば、1年間滞在して、季節や地域の行事など一周り堪能したかったのですが、大学の制度なので仕方がありません。前回は単身赴任でしたたが、今回は夫婦で滞在することになりました。西予市の城川支所の3階の部屋を借りて執務しています。
 家内は、2度ほど城川に来たことがあったのですが、もうかなり昔のことなので、ほとんど覚えていません。道などは全く覚えていないので、今回がはじめてのようなものです。半年間、車を借りているのですが、私は徒歩で通勤しているので、主に家内が車を使うことになります。家内は、店がある隣町までの道、執務室がある城川支所までの道などを覚えるのに、時間がかかっていました。北海道はまっすぐな道が多のですが、本州それも山里では、曲がりくねった道が多くなります。方向感覚が狂ってしまい、間違ったところを曲がってしまうこともあります。そのため、曲がるべき角の目印を見つけて覚えることが重要になります。さすがに2週間ほどしたら、家内もいつも通る道は覚えたようです。
 さて、前置きが長くなりました。地質調査には4月下旬には予定をしていますが、まだ調査には出ていません。そこで今回は、滞在している城川町を中心にした地質の概要を紹介していきましょう。
 城川町は、市町村合併で西予市となったのですが、古くから地質学では有名なところです。城川地域には、秩父帯と黒瀬川帯の地層が分布しています。この2つの帯の地層は、日本の初期地質学の発展の一翼を担ってきました。
 日本の地質学の黎明期から、秩父帯は四国でも調べられていて、1890年には原田が高知県領石、蔵法院、佐川の周辺の化石を、1891年には横山が徳島県勝浦川盆地の化石を調べています。そして、1910年には地質調査所から四国の20万分の1の地質図が発行されています。
 1920年代になると四国の各地で調査が進められました。1930年代になると小林の一連の研究で、佐川盆地でナップという考えで秩父帯の構造を説明し、1941年には、日本列島の地質構造の形成史を、佐川造山輪廻説としてまとめました。これは日本における、地向斜造山運動論という考えにおいて、ひとつの到達点ともなりました。
 1940年代は、戦争の影響で成果はあまり出ませんでした。終戦後すぐに、地質調査が再開され、精力的に研究が進められてきました。1950年代になると、1956年には市川ら、1959年には中川らが黒瀬川帯を調べました。1954年には山下らは、四国をもとにして秩父帯を北帯、中帯、南帯に区分しました。
 城川の黒瀬川帯に関する研究は、1933年に清水と神保によって城川町田穂から三畳紀のアンモナイトが、1952年に石井によって城川町岡成からシルル紀の三葉虫が発見されました。そして、1950年代には、城川を流れる黒瀬川地域が調べました。市川らの一連の研究によって、城川と野村が「黒瀬川構造帯」の典型的な地域(模式地といいます)として報告され、城川の「黒瀬川帯」の研究も進められてきました。この黒瀬川帯、特に黒瀬川構造帯が、城川を際立たせる地質学的特徴となっています。
 黒瀬川帯の中に黒瀬川構造帯はあります。その岩石類は、黒瀬川帯の岩石と比べて異質で、より古い岩石からできています。古生代の初期から中期の岩石で、火成岩類(三滝火成岩類と呼ばれています)と変成岩類(寺野変成岩類)、堆積岩類(岡成(おかなろ)層群)からできています。
 三滝火成岩類は、花崗閃緑岩類からなり斑レイ岩類を含んでいます。寺野変成岩類は、高温高圧の変成作用を受けた片麻岩、角閃岩、角閃岩からなり珪質片岩や石灰片岩を含んでいます。両岩石類は、大陸の地殻を構成していたと考えられます。岡成層群は、シルル~デボン紀の地層で、火山活動の活発な大陸の近くの暖かい浅海で溜まったものです。
 黒瀬川構造帯の岩石は、古生代に、大陸をつくっていた岩石やその周辺の大陸棚でたまった岩石となります。その分布は連続したものではなく、東西方向に複数の列をなして点在しています。四国では、東から点々と城川の滝山-辰ノ口-岡成まで分布しています。ところが、野村から三瓶の海岸までの間、約25kmにわたって黒瀬川帯の岩石が途切れます。そして、三瓶町周木で再び出現しますが、その先は豊後水道に消えていきます。
 黒瀬川構造帯以外の黒瀬川帯は、中生代の新しい時代に形成された付加体と大陸棚堆積岩からできています。付加体は、ペルム紀末~中生代初頭に形成されています。黒瀬川構造帯の北縁に分布する長崎層群、野村層群、窪川累層になります。
 大陸棚堆積岩は、礫岩層を含む粗い堆積岩や珪長質凝灰岩を挟む地層(砂岩泥岩互層)で、大陸から由来した堆積物(陸源堆積物と呼びます)からできています。宮成層群、土居層群、川内ヶ谷層群、嘉喜尾層群、成穂層があります。礫岩には、花崗岩、珪長質火砕岩類、石英斑岩、ヒン岩、砂岩の丸い大きな礫が含まれ、川で運ばれたことがわかります。地層の中からは、ペルム紀、三畳紀、ジュラ紀の化石が見つかっています。
 秩父帯は、黒瀬川帯で二分され、北側を北帯、南側を南帯(三宝山帯とも呼ばれています)となっています。いずれも付加体でできました。
 秩父帯北帯は、付加体の中の岩石には、石炭紀、ペルム紀、三畳紀、ジュラ紀などの岩塊がありますが、付加した年代は中期~後期ジュラ紀となります。秩父帯南帯は、前期~中期ジュラ紀に付加したものです。上には後期ジュラ~白亜紀の浅海性の地層が覆っています。野村では、野村層群、高川層群、古市累層、今井谷層群、菊野谷累層に区分され、宇和-三瓶地域では、板ケ谷層、三島層、田之浜層などに細分されています。
 秩父帯北帯も南帯もジュラ紀の付加体できていて、黒瀬川帯の付加体と比べて、新しい時代のものになります。
 城川の中央には東西に黒瀬川構造帯と黒瀬川帯が走り、その南北に秩父帯があります。これが城川の地質の概要となります。城川にはその中を流れる川があり、黒瀬川となります。城川の川津南の高知との県境の山を源流として、城川を流れ、野村の坂石で本流の肱川に合流します。黒瀬川が黒瀬川構造帯の名前の起こりとなっています。黒瀬川のほとりで、これから半年間、暮らしていきます。

・第二の故郷・
久しぶりの城川町は、やはり居心地がいいです。
昔からの知人もいて、新しく知り合った人もいます。
北海道から来ても、馴染みやすく、親近感が持てる環境です。
山間であっても、住みよい環境に感じます。
何度も来ているので、戻ってきたという気がします。
城川は第二の故郷となっています。

・復習を兼ねて・
4月下旬にジオミュージアムで、
市民向けの講演を頼まれました。
このエッセイは、その準備のために、
過去の資料をひっくり返しながら
またいろいろ思い出しながら、
書き進めてきました。
お陰でいろいろと思い出してきました。

2023年3月15日水曜日

219 館の岬:自然の営みとしての変化

  道南の乙部町には、きれいな縞模様の見える海岸の崖が名所です。その崖が大雨のために崩落しました。生活道でもある国道が、崩落で使えなくなりました。なぜ崩落し、どう復旧していくのでしょうか。


 2020年から2022年にかけて、COVID-19で社会が振り回され、それ以外のニュースは、影を潜めていたように思えます。その期間にも、災害がいろいろ起こっていたはずなのですが、人身に及ばなけば、メディアでの扱いは大きくなりません。災害が地元の人にとって、長期にわたって苦労を強いるものであっても、世間から顧みられることは少なくなります。そんな災害が、道南の乙部町で起こりました。
 乙部町は、日本海に面した道南の町です。道南の日本海側には、観光名所もいろいろあるのですが、観光客がそれほど多くは訪れないようです。乙部町は、地質学的には見どころがある地域であるとともに、居心地がいい町なので、何度も訪れています。
 国道229号が海岸沿いに通っており、そのコースは心地よいドラブができます。北から向かうと、まずは鮪(しび)の岬で、見事な柱状節理が目に入ります。脇道にはいっていくと、柱状節理の上を歩いて、先端までいけます。
 国道をさらに進んでいくと、館の岬で海岸線の崖にたどり着きます。その崖には、見事な地層が見えます。現在、海岸沿いで崖があるということは、崖の切り立った面が常に更新されているということで、侵食が現在も進行しているということです。そのため、大雨などが降ると、割れ目などがあると崩落してしまいます。
 2021年6月に、館の岬の地層が崩落しました。5月16日から17日かけて大量の降雨があり、6月4日にも激しい降雨がありました。2021年は、4月から降雨量が多く、過去10年の平均の2倍ほどになっていました。この崖は、凍結融解による地盤の緩みがあったようで、そこに大量の降雨がありました。
 6月6日(日曜日)18時過ぎに、この崖が崩壊しているのが発見されました。崩壊規模は、幅35m×高さ40m×奥行き5mでした。崖と国道の間には防御壁もあったのですが、それを乗り越えて崩落してきました。
 幸い人的被害はなく、防御壁と道路の被害だけになりました。しかし、この崩壊で国道は通行できなく、迂回をしなければなりませんでした。もともとあった道を利用する迂回路は、17kmもあり、生活道として必要な人は使うでしょうが、国道を通るために、この迂回路を利用するのは面倒になります。
 この崖は、舘層(たてそう)と呼ばれれう地層からできています。新第三紀の中新世(2300万年前から250万年前)の地層です。
 これらの地層は、いずれも層状の互層になっているため、縞模様がきれいな崖となっています。「東洋のグランドキャニオン」とも呼ばれています。地質学的には興味深いところです。
 舘層は、火山砕屑岩(凝灰角礫岩、凝灰岩、軽石凝灰岩)と堆積岩(泥岩から砂岩)からできています。下には、泥岩から凝灰質砂岩があり、上に凝灰角礫岩から凝灰岩、軽石凝灰岩、凝灰岩などが重なっています。舘層の岩石は、それほど硬くないもので、雨や水に侵食されやすいものです。
 その上に第四紀の更新世(250万年前以降)に段丘堆積物が覆っています。舘層の上の段丘の堆積物は、砂や礫からできています。段丘の堆積物は、まだ固まっていないので、より侵食を受けやすくなります。段丘の地表の谷沿いには、地滑りも起こっています。
 崖の更新や侵食は、人の時間の流れよりずっとゆくりした、自然の時間の流れで進みます。人は防災として、自然の時間の流れを予測して対処していなければなりません。自然の営みを予測することは容易ではありません。同じ危険度が継続するのではなく、長い時間崩落がないときほど、崩落の危険性は大きくなるはずです。そのような時間変化も考慮しなければなりません。
 この崖の下の国道を復旧しようとしても、今後も似た崩壊が起こるような地層からできています。現状の国道を復旧しても、崩落の危険性は残るため、完全に復旧するためには、いろいろな検討がなされ、山側の新たに2kmのトンネルを掘削することが、もっとも安全だということで合意されました。そのためには、7年から10年の工期がかかることになります。
 完成までに長い時間がかかり、現状の迂回路ではあまりに不便で、生活にも支障をきたします。そこで、2022年4月に、崖の上を通る「応急復旧短絡路」がつくられました。
 2021年6月の崩落の直前、5月に乙部町を訪れています。その後、崩落が起こりました。2022年10月には再度訪れたときは、段丘の上に真新しい迂回路ができていました。この新しく整備された短絡路は、勾配もきつく、急カーブも連続します。大型車は通行できませんが、生活道として利用でるようになりました。ただし、夏場の応急道路なので、冬場の夜間は通行止めとなっているそうです。
 館の岬の崖は、現在での通行止めのところから、眺めることができます。崩落以降、トンネルの北側には近づけません。長いトンネルが完成すると、崖に近づくことはもっと難しくなるかもしれません。トンネルは地質学的には残念ですが、人の命、人の生活、安全が優先されるべきでしょうね。

・学位記授与式・
コロナ禍もおさまり
通常の生活もだいぶどってきました。
大学では学位記授与式が通常通りにおこなわれます。
ただし、3つに分散しておこなわれます。
飲食はできませんが、今年から3年ぶりに、
大学の公式の祝賀会も実施されます。
現在の4年生とはコロナ禍で、
まったく懇親会をすることができませんでした。
やっと緩和されたので、最後ですので
ゼミでの祝賀をしたい思っています。

・マスク着用の緩和・
13日から、マスク着用が緩和されました。
しかし、施設内や狭いところでは、
着用が推奨されています。
多くが個人の判断にまかされます。
これまでの風邪と同じ状態になりつつあります。
5月にはCOVID-19も2類から5類になり
インフルエンザの同じ扱いになります。
マスク着用はどうなるでしょうかね。