今回は、地域の地質の紹介はしません。ご了承下さい。このエッセイをはじめて、丸10年が過ぎました。今回は、区切りのエッセイとします。今までを振り返り、今後を考えていきます。少々長くなりますが、お付き合いください。
【はじめに、お礼を】
月刊GeoEssay「大地を眺める Land View」のスタートは、2005年の創刊号(No.00号、1月3日発行)、そして1月号として毎月15日に定期発行をはじめました。発刊してから、丸10年が過ぎ、今年から11年目になりました。今回のエッセイで121回目の発行になります。そこで、10年間購読いただいた読者に対して、お礼を申し上げたいと思います。これまでこのメールマガジンおよびサイトを続けてこられたのは、読者の方がおられたからです。読者がおられないのであれば、ホームページで勝手に公開するだけでいいわけです。気楽かもしれませんが、多分定期発行はできていなかったと思います。繰り返しになりますが、購読、本当にありがとうございます。
10年の節目を迎えたので、今までの経緯を振り返り、発行方針や状況で変わったこと、変わらないことを整理して、今後の考えについて紹介していこうと思っています。
【はじまりは】
月刊GeoEssayの準備をはじめたのは、2004年の秋からでした。
当時、私は、北海道地図株式会社(以下、北海道地図と略す)から10mメッシュの数値地図を購入するため、コンタクトをとっていました。北海道、神奈川、愛媛県を共同購入することにしていました。本来は、私たちが用意した予算では購入できない範囲を、こちらの予算で購入することができるように配慮頂きました。その関係で、担当や本社の関係者といろいろと話をする機会もあり、会社の訪問もさせていただきました。
その時、北海道地図が地形解析図を製作販売していることを知りました。地形解析図をみて感動しました。地形解析とは、数値標高のデータを処理をして、地形の特徴をよりよく見せる手法でした。解析による加工により、画像として示すと、地質を反映した地形が明瞭に見えました。
地質学者は、野外で地形から地質の特徴を読み取っていましたが、時には経験的に読み取っていたものもありました。一般の人にはわかりにくい特徴をとらえていることもありました。ただし、地質学者も人ですから、人間の目で見える範囲やスケールは限られていました。ところが、コンピュータで数値処理をすると、さまざまなスケールで、地形や地質の特徴を浮彫りにすることができました。
しかも、地形解析の図をみれば、経験でかろうじてとらえていた特徴を、だれでも簡単に理解できることができるのです。これは大きなメリットでした。この表現手法を利用すれば、地質や地形を、多くの人へ視覚的に説明できるのではないかという思い浮かびました。
地形解析画像に魅力感じたので、それを利用して共同研究をすることを、北海道地図に提案しました。北海道地図は、私の提案を、快く受けてくださいました。そこで話し合た上で、北海道地図がデータの提供をすること、私が文章の作成、公開までをすることにし、そこでは一切、金銭の授受はしないという前提で行なうことにしました。お互いに、ボランティアでの活動ということにしました。
やり方は、私が調査で出かけた地域を題材に、科学教育の一環として、科学エッセイを毎月一回、書くことにしました。その科学エッセイを、メールマガジンとして発行して、市民に無料配布、公開して、科学の成果を還元することにしました。メールマガジンは文章のみなので、画像をホームページで示すことにました。私が購入した10mメッシュ数値地図、北海道地図からは地形解析図(商品でした)、購入していない地域は無料提供を受け、それを使用することにしました。
他にも、購入していた北海道の2,500万分の1地図画像、国土地理院が無料公開していた50mメッシュ、250mメッシュなどの数値地図を用いて、無料ソフトの「Kashmir」を用いて地形図や数値地図を合成して、画像を作成して公開していました。
私が調査した時に撮影した露頭写真や景観写真なども用いて、エッセイを書くことにました。画像は、すべてホームページで公開して、メールマガジンではテキストだけの発刊としました。そして、私自身、IT技術、GIS技術も学んでいこうという気持ちもがありました。
【これまでのこと】
2005年1月号からスタートし、今回のエッセイで121回になります。エッセイに関しては、毎月いつもの通り発行していましたが、この10年間でいろいろと状況の変化があり、表には出ないのですが、いくつか変わったこともあります。
まず、北海道地図との付き合いが、2009年3月で終わったことです。当初、どれくらい継続するかを決めずにスタートしましたが、4年3ヶ月も間、データを無料提供をしていただいたことになります。北海道地図にはこのエッセイ担当の方がおられ、私がメールマガジンの題材にする地域を指定したら、数値標高と地形解析やデータを作成するという手間をかけてくださっていました。あるとき、会社の組織再編があり、そこを区切り、データ提供は中止とすることになりました。しかし、北海道地図は、商品である地形解析図を、日本全国分を無料提供くださいました。非常に大量のデータなので、ハードディスクを2台送り、そこに入れてもたった記憶があります。また、そのデータ処理のためにプログラムを作成し、何日もコンピュータを動かしっぱなしにして計算した記憶があります。その結果、私がこのサイトで地形解析データを利用することができています。
無料で利用できるデータを、いろいろと加えていきました。まず、Landsatの衛星画像が無料で公開されていることを知り、それを利用しています。国土地理院からは10mメッシュの数値地図が無料公開されるようになりました。それまで10mメッシュは北海道地図の重要な商品でしたが、それが終わったことになります。また、5mメッシュの数値地図も段階的に無料公開されています。
エッセイでも紹介しましたが、アメリカNASAのSRTM3(90mメッシュの数値標高)や日米のASTERによるG-DEM(30mメッシュ)も、無料公開されてきました。G-DEMは精度がよく世界を網羅しているので、非常に有用なデータとなります。ただし、G-DEMはダウンロードの量が膨大になり大変ですので、日本周辺しかダウンロードしていません。
時代の進歩とともに、公共機関からでデータの公開され、ありがたく利用しました。それを商品としていた北海道地図さんが苦境に立たされたのは、複雑な思いもあります。
【変わらないこと】
長年発行をしてきたのですが、変わらないこともありました。基本方針として、私が調査した地域を題材にすることでした。日本にこだわっていました。日本の海岸線や代表的河川で試料を採取するという当初の研究目的があったためです。
次に、IT技術には注目をしていて、常に新しい導入を心がけることでした。連載開始の頃からいろいろと新しい技術に取り組んでいきた、数値地図の利用だけでなく、GPSの利用、パノラマ画像の合成などに取り組んできましたが、これらの一部は、今では当たり前になり、装置もソフトも何度も更新されてきました。今後もこのような更新は続くでしょう。スマートフォーンにはすべて入るようになってきました。しかし、専用機にはまだおよびませんが。
【これからのこと】
さて、これからのことです。
■GeoEssayはこれからも発行します
何人かの読者には、エッセイが取り上げた地を、見学に出かけられる人もおられます。そして楽しんで読まれている方もおられます。ですから、毎月、紹介することも、重要なことだと思い、励みにもなっています。ですから、今後も、この月刊エッセイは継続していきたいと考えています。ただし、いくつか方針を変更していこうと考えています。
■万遍なくにこだわらない
もともとこのエッセイは、私の研究テーマの一つとして、日本の海岸線や河川の調査がありあした。そのため日本全国の海岸を巡るという野外調査をしていて、その時に感想や画像を素材に作成していました。今までのエッセイを見ていただくとわかるのですが、関東、中国などは手薄です。現在でも、日本の海岸線や河川の調査は続けたいと思っているのですが、なかなか出かけられなくなりました。ですから、これからは日本全国の海岸線、河口を万遍なく調査するということはできなくなりました。日本全国万遍なくという希望は継続しながらも、こだわることを止めることにしました。
■地域の重複を気にしない
子どもが小さいうちは家族旅行であちこちっていたものをネタにしていたのですが、最近では野外調査で出かけられる時間が限られてきました。目的と日程を絞って野外調査をする必要性がでてきました。現在の研究テーマが、九州、四国、南紀を中心にしたものになっています。あと数年は、この地域で調査が継続しそうです。ですから、他地域にでかける機会が、ほとんどなくなりました。ですから、現状に合わせて、同じ地域でも重複を気にすることなく、紹介することにします。
■日本、地球にこだわらない
発刊当初は、北海道地図との関係(データの提供を受けていた)があったので日本に限定されていました。その関係が現在ではなくなり、日本にこだわる必要もなくなりました。上述したように、全地球の各種の数値標高データが無料公開されています。ただし、私は海外に出かけることは、しばらくできそうにありませんが。以前訪れたところもあります。新情報ではないですが、海外の地質や地形の紹介もしていこうと考えています。行きたいところも色々ありますので、それらを素材にして書くことも考えています。
さらに、日本だけでなく、海外にテーマを広げ、さらに地球だけでなく、火星や金星など他天体の地形、地質の情報も可能であれば紹介していこうと考えています。ただし、現在扱えるのは、火星と金星のデータだけで、それも古いものです。
これからのことををまとめると、次のようになります。
・エッセイはこれからも継続発行
・「万遍なく」という制限は考えない
・地域の重複も気にしない
・興味のある地域を、日本、地球にこだわることなく選定
【さいごに】
このエッセイを続けてきて、思い返すと、いろいろなことがありました。忙しくて書く時間とれず、遅れたこともありました。調査のあとは、書くことがあれこれあり、どこから書こうか迷っていることもありました。
時間があり、地域さえ決まれば、書くことは私は苦はなりません。ただし、今までの「しかたり」めいたものがあり、それに続縛されてネタを探すのに苦労したことが、たびたびありました。
今回の方針変更で、地域選定の負担は減りました。また、行きたい地域、行ったこともない地域、同じ地域も素材にできるようになりました。これは、私にとっては、非常に気が楽になり、地域選定も楽しくなり、書きやすくなりました。これからも、問題が起きない限り、継続して発行していこうと思っています。
最後に繰り返しになりますが、購読者の方々、今まで本当にありがとうございました。これからも、よろしければお付き合いください。ただし、興味がなくなれば、いつでも購読の解除をしてくださって結構です。お互い、気軽に楽しんでいきましょう。
・No. 00・
スタートした時の番号をNo. 00号としたのは、
なぜ二桁にしたのか記憶は定かではありません。
年限を決めていなかったのですが、
数年で終わるつもりで
100号までいくとは予想していなかったのでしょう。
いろいろ事情は変わってきたのですが、
その都度、それなりの理由で継続することにしました。
その結果、10年の長きに渡り、継続することになりました。
今後は、少々発行方針を変えることにしましたが、
淡々と継続していきたいと思いっています。
・しきたりを捨てる・
今回、10年目を迎えるに当たり、
地域によっては、ホームページの地図が混在してきたので、
すべてを地域別に表現することにしました。
すると、関東や中国地域など、
エッセイに取り上げている地域が少ないことに気づきました。
それをどう埋めようか考えたのですが、
行く時間がなかなかとれそうにもありません。
それで、このエッセイの「そもそも」を考えていたら、
どうも、根拠の消えた「しきたり」に縛られている気がしました。
しかし、メールマガジンですから、
ある目的をもって読まれている方もおられるので、
無断で「しきたり」を変えるのは良くないと思い、
今回の10年目の区切りのエッセイを書いて、
方針を少々変更することにしました。
次回をどこにするか、今から楽しみなってきました。
もちろん、まだ未定ですが。
大地の景観には、
さまざまな自然の驚異、素晴らしさ、不思議が隠されています。
そんな大地の景観を地形や地質のデータから地質学者が眺めたら、
どう見えるでしょうか。
皆さんどうか、大地の造形に隠された仕組みに
目を向けてください。そして楽しんでください。
2015年1月15日木曜日
2014年12月15日月曜日
120 野付の砂嘴:砂と森と人のサイクル
野付半島は道東でも有名な観光地です。野付には、大地と海が織りなす砂嘴の形成と浸食のサイクルがあります。もっと短い、森の形成と渇死のサイクルもあります。砂と森と海の生み出すサイクルの中に、人の生活が営まれています。
今年の9月下旬に、野付の近くまで来た時に、夕方に少し余裕があったので、足を延ばし、野付半島を訪れました。夕方まであまり時間がなかったので、駆け足でみることになりました。服もスーツで、足元も革靴だったのですが、整備された環境なので、楽に見学することにができました。9月下旬の平日にかかわらず、思った以上に観光客が訪れていました。風が少々あったのです、北国の快晴の青空のもとで、野付の砂と森、海の織りなす景観を見ることができました。
野付半島へは、国道244号線(ホッポーロードと呼ばれています)を、標津からすぐ南の道道950号線(フラワーロード)に入っていきます。この950号線は、野付半島を通っている唯一の道となります。950号線を進むと、やがて竜神崎の手前で通行止めになっており、そこから先は関係者しか入れなくなっています。
野付半島の付け根は標津町になっていますが、途中から別海町に変わります。道路を走っているとこの飛び地は、少々不思議な感じがします。ところが、船を中心に生活している漁業関係者からみると、野付半島の南に一番飛び出た岬は、別海町のすぐ前でまであり、その距離は非常に近いことがわかります。
野付半島は、北海道の東部にある小さな半島です。北に知床半島、南東に根室半島があります。知床半島と根室半島の間には、国後(くなしり)島が食い込むように入り込んでいます。間の海は根室海峡、一番狭いところが野付水道と呼ばれています。
野付水道に、ちょろりと小さなひげかエビのしっぽのように突き出ている野付半島があります。半島というにはあまりに小さなものです。野付半島から北の海を見ると、高い山並みが北へと続く知床半島がみえます。海を隔てすぐ目の前には、北方4島の一つ、国後島が間近に見えます。ちなみに根室半島の先端の納沙布岬からは、歯舞(はぼまい)諸島の一つ水晶島が間近に見えます。
野付半島の形は、地図で見ると非常に奇異なものです。この形は、砂嘴(さし)と呼ばれものです。砂嘴とは、海流によって運ばれた砂が浅い海岸にたまって、鳥の嘴(くちばし)のような丸みをもって曲がった地形です。
野付半島は、全長26kmもある、日本でもっとも長いものです。この砂嘴は、国後島と北海道の間の根室海峡を通る潮流によってできたものです。北の知床半島の火山岩(主に安山岩)が侵食によって海に流れ出たものが、供給源となっています。
野付半島は、通常の砂嘴よりも複雑な形をしています。砂嘴の内側に次々と丸みをもった枝分かれした砂嘴が形成されています。このような枝分かれているものを、分岐砂嘴と呼んでいます。それは、地球の環境の変化と大地の変動が組み合わさってできてきたと考えられます。
野付半島の先端に近い竜神崎で、140mのボーリングがおこなわれたのですが、その結果によると、120mより深いところは火山灰層あります。120mから27.5mまでは、砂まじりの粘土となります。ここまでは、火山に近い海底の堆積物です。その上は、砂になっています。
氷河期には氷が陸域に発達するので、海水の量が減り海退がおこります。一方、間氷期には陸の氷が溶けて海水が増え海進が起こります。これが、地球規模の気候変動に呼応した海水準の変動となります。しかし、ボーリング結果をみると砂嘴の形成はもっと後のことです。砂嘴の形成は、縄文海進が終わって、現在と同じような海水準になった後、3000年くらい前からはじまりました。
もともと非常に浅い海域であったこの地は、海水準の変動を非常に受けやすくなります。小刻みな変動であっても、敏感に反応していきます。
ある推定(岡崎, 1989)によると、野付半島では、3000年以降、1mから2m程度の海水準の上昇が2度あったとされています。その際、砂嘴の形成や浸食が起こりました。3000年以来、現在がもっとも低い海水準だと考えられています。
その推定によると、沖に向かってエビのしっぽのような丸みをもった砂嘴が、8個も形成されるような変動が起こったとされています。その結果、野付半島では、沖に向かって次々と新しい「しっぽ」が、分岐砂嘴として形成されていきました。
気候と大地の変動には、大きなものから、ささやかなものまであります。野付半島の地形を形成した変動は、ささやかなものを反映していると考えられます。野付のあたりは、海が浅く広がっていたため、非常に敏感にその変動を受け取りました。その敏感さが、枝分かれした不思議な砂嘴を形成したのでしょう。
砂の営みよりさらに敏感なものがあります。それは生きものです。安定した陸地があれば、そこには植物が生えます。トドマツやミズナラの大木が森林をつくっていました。
北海道のアイヌ文化以前の7世紀ごろから13世紀にかけての擦文(さつもん)時代(本州では飛鳥時代から鎌倉時代後半)とされる遺跡が、半島中央部のオンニクルの森で発見されています。江戸時代の中頃まで、トドマツやエゾマツ、ハンノキ、カシワなどの原生林があったとされています。
江戸時代以降も、この地は、ニシンのいい漁場になっていました。野付の砂嘴ごとに多数の集落が形成されていました。春になると、各地から多数の人が集まり、一番外の砂嘴には、50棟から60棟の小屋が立ち並んでいたといいます。その痕跡は、「荒浜岬遺跡」として敷石が残されています。
その後、地盤沈下がおこり、海水が侵入してきました。植物は逃げられないので、海水が来たところは、木が枯れてしまいました。この立ち枯れの木が、まだ多数の残っているところがあります。ミズナラが枯れたところをナラワナと呼んでいますが、そこには海岸線に沿って多数の立ち枯れの木が残っています。一方、トドマツが枯れたところをトドワラでは、立ち枯れの木が一部に残るだけで、塩湿地となっています。
近年は、砂の流出が起こっていようです。高潮や低気圧の接近があると、海水が道路まで押し寄せることがあるようです。もし海面上昇、あるいは少しの地盤沈下があれば、野付半島は敏感にその影響を反映するでしょう。
野付半島に訪れたのは、これで3度目でした。前回は2006年の5月、それ以前の訪問はだいぶ前で記憶も定かではありません。もし、8年前やもっと以前の記憶が定かであれば、比較できれば、森や人の暮らしの変化に気づけたかもしれません。
野付半島の分岐砂嘴の骨格あたるものは、大地の変動が数千年から数百年のサイクルで形成されているものです。しかし、植物はもっと短い百年から数十年のサイクルで変化しています。そのスケールは人の歴史のサイクルに呼応しています。野付の砂嘴は、砂と森と人のサイクルを反映しているようです。
・大地の敏感さ・
野付半島は、このエッセイで2006年6月号で紹介しています。
今回、再訪したので、また紹介することにしました。
以前来た時と比べれば、
観光施設が充実していたように見えました。
砂嘴自体が移ろいやすいものです。
そこを基盤に、森が消長していきます。
さらに人の活動の盛衰も繰り返し起こっています。
これからも、野付の砂嘴は
敏感にいろいろな変化を映しとっていくのでしょうか。
・根雪・
北海道は、一気に冷え込み、雪が繰り返し降りました。
その繰り返しで、大地は一面雪に覆われた光景となりました。
根雪に覆われたかのような真冬の光景となっています。
道路はガリガリに凍り、ツルツルになりました。
歩くのが恐ろしくなります。
このまま気温が上がることなく、
雪が降リ続けば、早い根雪となるでしょう。
もしそうなら、今年の冬は
長くつらいものになりそうです。
今年の9月下旬に、野付の近くまで来た時に、夕方に少し余裕があったので、足を延ばし、野付半島を訪れました。夕方まであまり時間がなかったので、駆け足でみることになりました。服もスーツで、足元も革靴だったのですが、整備された環境なので、楽に見学することにができました。9月下旬の平日にかかわらず、思った以上に観光客が訪れていました。風が少々あったのです、北国の快晴の青空のもとで、野付の砂と森、海の織りなす景観を見ることができました。
野付半島へは、国道244号線(ホッポーロードと呼ばれています)を、標津からすぐ南の道道950号線(フラワーロード)に入っていきます。この950号線は、野付半島を通っている唯一の道となります。950号線を進むと、やがて竜神崎の手前で通行止めになっており、そこから先は関係者しか入れなくなっています。
野付半島の付け根は標津町になっていますが、途中から別海町に変わります。道路を走っているとこの飛び地は、少々不思議な感じがします。ところが、船を中心に生活している漁業関係者からみると、野付半島の南に一番飛び出た岬は、別海町のすぐ前でまであり、その距離は非常に近いことがわかります。
野付半島は、北海道の東部にある小さな半島です。北に知床半島、南東に根室半島があります。知床半島と根室半島の間には、国後(くなしり)島が食い込むように入り込んでいます。間の海は根室海峡、一番狭いところが野付水道と呼ばれています。
野付水道に、ちょろりと小さなひげかエビのしっぽのように突き出ている野付半島があります。半島というにはあまりに小さなものです。野付半島から北の海を見ると、高い山並みが北へと続く知床半島がみえます。海を隔てすぐ目の前には、北方4島の一つ、国後島が間近に見えます。ちなみに根室半島の先端の納沙布岬からは、歯舞(はぼまい)諸島の一つ水晶島が間近に見えます。
野付半島の形は、地図で見ると非常に奇異なものです。この形は、砂嘴(さし)と呼ばれものです。砂嘴とは、海流によって運ばれた砂が浅い海岸にたまって、鳥の嘴(くちばし)のような丸みをもって曲がった地形です。
野付半島は、全長26kmもある、日本でもっとも長いものです。この砂嘴は、国後島と北海道の間の根室海峡を通る潮流によってできたものです。北の知床半島の火山岩(主に安山岩)が侵食によって海に流れ出たものが、供給源となっています。
野付半島は、通常の砂嘴よりも複雑な形をしています。砂嘴の内側に次々と丸みをもった枝分かれした砂嘴が形成されています。このような枝分かれているものを、分岐砂嘴と呼んでいます。それは、地球の環境の変化と大地の変動が組み合わさってできてきたと考えられます。
野付半島の先端に近い竜神崎で、140mのボーリングがおこなわれたのですが、その結果によると、120mより深いところは火山灰層あります。120mから27.5mまでは、砂まじりの粘土となります。ここまでは、火山に近い海底の堆積物です。その上は、砂になっています。
氷河期には氷が陸域に発達するので、海水の量が減り海退がおこります。一方、間氷期には陸の氷が溶けて海水が増え海進が起こります。これが、地球規模の気候変動に呼応した海水準の変動となります。しかし、ボーリング結果をみると砂嘴の形成はもっと後のことです。砂嘴の形成は、縄文海進が終わって、現在と同じような海水準になった後、3000年くらい前からはじまりました。
もともと非常に浅い海域であったこの地は、海水準の変動を非常に受けやすくなります。小刻みな変動であっても、敏感に反応していきます。
ある推定(岡崎, 1989)によると、野付半島では、3000年以降、1mから2m程度の海水準の上昇が2度あったとされています。その際、砂嘴の形成や浸食が起こりました。3000年以来、現在がもっとも低い海水準だと考えられています。
その推定によると、沖に向かってエビのしっぽのような丸みをもった砂嘴が、8個も形成されるような変動が起こったとされています。その結果、野付半島では、沖に向かって次々と新しい「しっぽ」が、分岐砂嘴として形成されていきました。
気候と大地の変動には、大きなものから、ささやかなものまであります。野付半島の地形を形成した変動は、ささやかなものを反映していると考えられます。野付のあたりは、海が浅く広がっていたため、非常に敏感にその変動を受け取りました。その敏感さが、枝分かれした不思議な砂嘴を形成したのでしょう。
砂の営みよりさらに敏感なものがあります。それは生きものです。安定した陸地があれば、そこには植物が生えます。トドマツやミズナラの大木が森林をつくっていました。
北海道のアイヌ文化以前の7世紀ごろから13世紀にかけての擦文(さつもん)時代(本州では飛鳥時代から鎌倉時代後半)とされる遺跡が、半島中央部のオンニクルの森で発見されています。江戸時代の中頃まで、トドマツやエゾマツ、ハンノキ、カシワなどの原生林があったとされています。
江戸時代以降も、この地は、ニシンのいい漁場になっていました。野付の砂嘴ごとに多数の集落が形成されていました。春になると、各地から多数の人が集まり、一番外の砂嘴には、50棟から60棟の小屋が立ち並んでいたといいます。その痕跡は、「荒浜岬遺跡」として敷石が残されています。
その後、地盤沈下がおこり、海水が侵入してきました。植物は逃げられないので、海水が来たところは、木が枯れてしまいました。この立ち枯れの木が、まだ多数の残っているところがあります。ミズナラが枯れたところをナラワナと呼んでいますが、そこには海岸線に沿って多数の立ち枯れの木が残っています。一方、トドマツが枯れたところをトドワラでは、立ち枯れの木が一部に残るだけで、塩湿地となっています。
近年は、砂の流出が起こっていようです。高潮や低気圧の接近があると、海水が道路まで押し寄せることがあるようです。もし海面上昇、あるいは少しの地盤沈下があれば、野付半島は敏感にその影響を反映するでしょう。
野付半島に訪れたのは、これで3度目でした。前回は2006年の5月、それ以前の訪問はだいぶ前で記憶も定かではありません。もし、8年前やもっと以前の記憶が定かであれば、比較できれば、森や人の暮らしの変化に気づけたかもしれません。
野付半島の分岐砂嘴の骨格あたるものは、大地の変動が数千年から数百年のサイクルで形成されているものです。しかし、植物はもっと短い百年から数十年のサイクルで変化しています。そのスケールは人の歴史のサイクルに呼応しています。野付の砂嘴は、砂と森と人のサイクルを反映しているようです。
・大地の敏感さ・
野付半島は、このエッセイで2006年6月号で紹介しています。
今回、再訪したので、また紹介することにしました。
以前来た時と比べれば、
観光施設が充実していたように見えました。
砂嘴自体が移ろいやすいものです。
そこを基盤に、森が消長していきます。
さらに人の活動の盛衰も繰り返し起こっています。
これからも、野付の砂嘴は
敏感にいろいろな変化を映しとっていくのでしょうか。
・根雪・
北海道は、一気に冷え込み、雪が繰り返し降りました。
その繰り返しで、大地は一面雪に覆われた光景となりました。
根雪に覆われたかのような真冬の光景となっています。
道路はガリガリに凍り、ツルツルになりました。
歩くのが恐ろしくなります。
このまま気温が上がることなく、
雪が降リ続けば、早い根雪となるでしょう。
もしそうなら、今年の冬は
長くつらいものになりそうです。
2014年11月15日土曜日
119 むつ湾を抱く下北半島
下北半島に取り囲まれ、津軽海峡とつながるむつ湾は、穏やかな海の佇まいからは想像できない複雑な大地の歴史を持っています。むつ湾は、下北半島に抱かれるような形をしています。
秋に校務で青森に出かけました。1泊2日の慌ただしい出張でした。青森空港から、陸奥湾を望むむつ市に、レンタカーで向かいました。そこが校務の目的地でした。長い道中でしたが、カーナビの示す時間より1時間ほど早く着くことができました。その時間を考えると、校務を終えてむつ市から出発すると、カーナビの必要時間では、空港に着く時間が飛行機の出発時間には間に合わない時間でした。少々心配でしたが、行きにかかった時間をみると、かなり余裕をもっていカーナビの時間は設定されていたことがわかりました。帰るときも、自動車道やローカル道路は空いていたので、順調に進むことができ、飛行機の時間にちょうど間に合いました。
むつ市までは、下北半島に沿って北上することになります。下北半島にある東通(ひがしどおり)村は、太平洋と津軽海峡に面しています。東通の地名は、ニュースでよく聞きました。それは、日本原燃と東北電力、リサイクル燃料貯蔵、東京電力などの原子力発電所の再処理工場、備蓄センターなどあるところとして、最近注目を浴びています。道路のよく整備されて、多くの資金が投入されていることが伺われます。
原発関連の施設などがあるため、あるいは大間原発建設の問題で、下北半島の周辺は地質を詳しく検討されるようになってきました。かつては施設近辺だった調査が、広く周辺の地質構造、特に活断層については、詳しく調べられるようになってきました。下北半島を斜めに横切る延長84kmにもなる海底断層である大陸棚外縁断層は話題になりました。
今回は断層の話ではなく、むつ湾を囲む下北半島の地形の不思議さについてです。
下北半島でむつ湾に面した最奥部にむつ市があります。むつ湾には、西側の夏泊半島が北につきだしているため、チョウが羽根を広げたような形をしています。夏泊半島の東を野辺地湾、西を青森湾と呼びます。むつ湾を抱くようにして下北半島があります。
地図をみて気づくことは、下北半島が不思議な形をしていることです。マサカリのような形になっています。マサカリの刃の部分には、標高600~800mの山が連なる下北山地があります。柄の部分のむつ湾側は比較的平らな低地(田名部(たなぶ)低地と呼ばれています)なのですが、東側には吹越山地があります。マサカリの付け根、半島の根本には、小川原低地、六ヶ所低地など、沼や湖をもった沖積平野があります。このようには下北半島は、むつ湾を囲んで非常に変化に富んだ地形をもっています。
下北半島がこのような地形をもっているのは、大地の生い立ち、つまり地質構造に由来しています。
太平洋側の吹越山地は、新第三紀の中新世の堆積岩からできてています。新第三紀の岩石は、日本海形成に関連したグルーンタフ活動の一貫であると考えられています。この山地の地層は背斜構造をもっています。背斜とは、地層が押し縮められたとき上に凸に盛り上がってできる大きく単調な褶曲のような地質構造です。その背斜の軸がマサカリの柄の方向に伸びています。これは、日本列島が太平洋プレートに押されているために、このような構造ができます。大陸棚外縁断層も同じようなプレートの運動によってできている可能性があります。そして、新第三紀の地層を第四紀の地層が覆っています。
また、刃と柄の交差するところである下北半島の北東端には、付加体の構成物(尻屋コンプレックスと呼ばれています)があります。この付加体のチャートからはジュラ紀、泥岩からはジュラ紀末から白亜紀初期の化石がみつかっています。チャートができ、泥岩ができた後、尻屋コンプレックスは日本列島に付加したことになります。
田名部低地は、下北半島の北側にみられる第四紀の地層より新しいもので、田名部層と呼ばれています。この第四紀の田名部層は、むつ湾の東海岸付近に広く分布し、その厚さは50m以上も堆積している地層です。
下北山地は、むつ湾で途切れていますが、夏泊半島を経て奥羽山脈へと続いている山脈になります。下北山地は、中生代の古い地層と新第三紀の地層があり、その上に恐山を中心とした火山活動や火山噴出物の分布しています。
下北半島の西端は切り立った断崖の連らなる海岸で、中生代の古い岩石(基盤と呼ばれる)を取り囲むように新第三紀の岩石が分布します。
基盤岩類は付加体の構成物や火成岩からできています。付加体の構成物であるチャートからは、三畳紀の化石が見つかっています。ですから、尻屋コンプレックスよりはやや古い付加体かもしれません。火成岩は福浦岩体と呼ばれ、花崗岩(正確には石英閃緑岩と呼ばれるもの)が地層に貫入しています。貫入の年代は、K-Ar年代測定によると1億800万年前(白亜紀の中頃)となっています。
新第三紀の堆積後に、恐山の火山活動が起こっています。恐山は現在も活動している活火山です。恐山火山は、大きな山体をもっています。80万年前頃から火山活動は始まっています。安山岩からデイサイトのマグマの活動によるものです。火山活動によってカルデラである宇曽利(うそり)湖が形成され、火砕流なども発生しています。
下北半島には、付加体や活火山、グルーンタフ活動、そして沖積の堆積物と、日本列島を特徴付ける地質が狭い範囲に凝縮しています。その象徴としてむつ湾のがあるのかもしれません。
むつ湾を眺めることができる釜伏山にいくために車を走らせました。途中で何箇所か展望台がありむつ湾や下北半島の柄の部分を眺めながら山頂に向かいました。山頂付近は自衛隊の基地になっているため、厳重な警戒がされていましたが、山頂までいくことができます。ところが残念ながら、霧のため十分な展望ができませんでした。こんなこともあるのです。
・冬到来・
北海道はいち早く積雪をみました。
冷え込んではいるものの、
日が昇れば溶けてしまうでしょうから、
根雪にはならないと思います。
しかし、この積雪で、ほとんどの車は
冬タイヤに変えることになりました。
我が家の車は、昼間しか使わない車です。
例年は多くの積雪がある12月になってからの交換でしたが、
今年は11月中旬に交換です。
今年の冬は少し早いのようです。
・恐山・
恐山については、
以前のエッセイで書いたので参照してください。
恐山:異界で生まれる金鉱石(2008.10.15)
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2008/42.html
現在の恐山は、信仰の対象してだけでなく、
温泉も含めた観光としても人を集めています。
その基地としてむつ市の役割もあのでしょう。
今回訪れたのは、
9月下旬で山頂では紅葉の始まりの頃でした。
ただし、天気があまりよくなかったので
校務の余録を楽しむことは
ほとんどできませんでした。
秋に校務で青森に出かけました。1泊2日の慌ただしい出張でした。青森空港から、陸奥湾を望むむつ市に、レンタカーで向かいました。そこが校務の目的地でした。長い道中でしたが、カーナビの示す時間より1時間ほど早く着くことができました。その時間を考えると、校務を終えてむつ市から出発すると、カーナビの必要時間では、空港に着く時間が飛行機の出発時間には間に合わない時間でした。少々心配でしたが、行きにかかった時間をみると、かなり余裕をもっていカーナビの時間は設定されていたことがわかりました。帰るときも、自動車道やローカル道路は空いていたので、順調に進むことができ、飛行機の時間にちょうど間に合いました。
むつ市までは、下北半島に沿って北上することになります。下北半島にある東通(ひがしどおり)村は、太平洋と津軽海峡に面しています。東通の地名は、ニュースでよく聞きました。それは、日本原燃と東北電力、リサイクル燃料貯蔵、東京電力などの原子力発電所の再処理工場、備蓄センターなどあるところとして、最近注目を浴びています。道路のよく整備されて、多くの資金が投入されていることが伺われます。
原発関連の施設などがあるため、あるいは大間原発建設の問題で、下北半島の周辺は地質を詳しく検討されるようになってきました。かつては施設近辺だった調査が、広く周辺の地質構造、特に活断層については、詳しく調べられるようになってきました。下北半島を斜めに横切る延長84kmにもなる海底断層である大陸棚外縁断層は話題になりました。
今回は断層の話ではなく、むつ湾を囲む下北半島の地形の不思議さについてです。
下北半島でむつ湾に面した最奥部にむつ市があります。むつ湾には、西側の夏泊半島が北につきだしているため、チョウが羽根を広げたような形をしています。夏泊半島の東を野辺地湾、西を青森湾と呼びます。むつ湾を抱くようにして下北半島があります。
地図をみて気づくことは、下北半島が不思議な形をしていることです。マサカリのような形になっています。マサカリの刃の部分には、標高600~800mの山が連なる下北山地があります。柄の部分のむつ湾側は比較的平らな低地(田名部(たなぶ)低地と呼ばれています)なのですが、東側には吹越山地があります。マサカリの付け根、半島の根本には、小川原低地、六ヶ所低地など、沼や湖をもった沖積平野があります。このようには下北半島は、むつ湾を囲んで非常に変化に富んだ地形をもっています。
下北半島がこのような地形をもっているのは、大地の生い立ち、つまり地質構造に由来しています。
太平洋側の吹越山地は、新第三紀の中新世の堆積岩からできてています。新第三紀の岩石は、日本海形成に関連したグルーンタフ活動の一貫であると考えられています。この山地の地層は背斜構造をもっています。背斜とは、地層が押し縮められたとき上に凸に盛り上がってできる大きく単調な褶曲のような地質構造です。その背斜の軸がマサカリの柄の方向に伸びています。これは、日本列島が太平洋プレートに押されているために、このような構造ができます。大陸棚外縁断層も同じようなプレートの運動によってできている可能性があります。そして、新第三紀の地層を第四紀の地層が覆っています。
また、刃と柄の交差するところである下北半島の北東端には、付加体の構成物(尻屋コンプレックスと呼ばれています)があります。この付加体のチャートからはジュラ紀、泥岩からはジュラ紀末から白亜紀初期の化石がみつかっています。チャートができ、泥岩ができた後、尻屋コンプレックスは日本列島に付加したことになります。
田名部低地は、下北半島の北側にみられる第四紀の地層より新しいもので、田名部層と呼ばれています。この第四紀の田名部層は、むつ湾の東海岸付近に広く分布し、その厚さは50m以上も堆積している地層です。
下北山地は、むつ湾で途切れていますが、夏泊半島を経て奥羽山脈へと続いている山脈になります。下北山地は、中生代の古い地層と新第三紀の地層があり、その上に恐山を中心とした火山活動や火山噴出物の分布しています。
下北半島の西端は切り立った断崖の連らなる海岸で、中生代の古い岩石(基盤と呼ばれる)を取り囲むように新第三紀の岩石が分布します。
基盤岩類は付加体の構成物や火成岩からできています。付加体の構成物であるチャートからは、三畳紀の化石が見つかっています。ですから、尻屋コンプレックスよりはやや古い付加体かもしれません。火成岩は福浦岩体と呼ばれ、花崗岩(正確には石英閃緑岩と呼ばれるもの)が地層に貫入しています。貫入の年代は、K-Ar年代測定によると1億800万年前(白亜紀の中頃)となっています。
新第三紀の堆積後に、恐山の火山活動が起こっています。恐山は現在も活動している活火山です。恐山火山は、大きな山体をもっています。80万年前頃から火山活動は始まっています。安山岩からデイサイトのマグマの活動によるものです。火山活動によってカルデラである宇曽利(うそり)湖が形成され、火砕流なども発生しています。
下北半島には、付加体や活火山、グルーンタフ活動、そして沖積の堆積物と、日本列島を特徴付ける地質が狭い範囲に凝縮しています。その象徴としてむつ湾のがあるのかもしれません。
むつ湾を眺めることができる釜伏山にいくために車を走らせました。途中で何箇所か展望台がありむつ湾や下北半島の柄の部分を眺めながら山頂に向かいました。山頂付近は自衛隊の基地になっているため、厳重な警戒がされていましたが、山頂までいくことができます。ところが残念ながら、霧のため十分な展望ができませんでした。こんなこともあるのです。
・冬到来・
北海道はいち早く積雪をみました。
冷え込んではいるものの、
日が昇れば溶けてしまうでしょうから、
根雪にはならないと思います。
しかし、この積雪で、ほとんどの車は
冬タイヤに変えることになりました。
我が家の車は、昼間しか使わない車です。
例年は多くの積雪がある12月になってからの交換でしたが、
今年は11月中旬に交換です。
今年の冬は少し早いのようです。
・恐山・
恐山については、
以前のエッセイで書いたので参照してください。
恐山:異界で生まれる金鉱石(2008.10.15)
http://terra.sgu.ac.jp/geo_essay/2008/42.html
現在の恐山は、信仰の対象してだけでなく、
温泉も含めた観光としても人を集めています。
その基地としてむつ市の役割もあのでしょう。
今回訪れたのは、
9月下旬で山頂では紅葉の始まりの頃でした。
ただし、天気があまりよくなかったので
校務の余録を楽しむことは
ほとんどできませんでした。
2014年10月15日水曜日
118 市街を守る陣立て:桂浜
(2014.10.15)
桂浜は、観光地として有名です。そんな観光地でもあるのに、人目にふれるところに大規模な防波堤などの人工物があります。そこには、人が自然の地形を古くから利用してきた歴史を感じ取ることができました。
9月の調査では、日程と時間の都合で、桂浜の宿に到着時と出発時の2度同じ所に泊まりました。結果としてそれがよかったのですが、それは後の話しです。
さて、私の興味は、景勝の地の背景にある自然、そして露頭です。自然によって成り立っている景勝地は、たいてい岩石や地層が、その基礎となっています。桂浜もそうです。丘や岩礁に岩石ができています。
高知空港から桂浜に向かうときは海岸を県道14号線(黒潮ライン)で進むことになります。14号線を東に向かうと、平野からやがて海と丘陵に囲まれた海岸を進み、そして小高い丘に至る直前に橋を渡ります。一見河口にみえるような狭いところに掛かる橋ですが、それは湾のくびれとなっています。橋を渡り丘を回ったところが桂浜になります。小雨の中、まずは宿泊地のホテルに向かいました。丘の上に来るのは初めてです。ホテルの横には、高知県立坂本龍馬記念館があります。雨の日の夕方なので、この記念館を見ました。
桂浜は、以前に一度みにきていて、あまり岩石がよく見えない海岸なので、地質学的にはあまり興味が湧かないところです。地質の見学には、高知市から少し離れれば、自然の砂浜、岩場などがいっぱい広がっていて、似た地層がよく見れるところがあるのですから。
それでも桂浜は、有名な観光地でもあり、朝、時間があったので、見学しました。丸く湾曲した砂地浜の海岸、その先に突き出た岩礁、後ろに小高くそびえる丘などが、狭い地域に多様な要素が組み込まれています。丘には松の緑が覆います。砂の白、海の碧、空の青とのコントラストもきれいです。岩礁や丘の上から桂浜を眺めると、海岸線の優雅な幾何学的カーブ、水平線のあるかないかの緩やかな湾曲とが見てとれます。自然の織りなす変化に富んだ景勝の地でもあります。
高知の市街地のすぐ近くにこのような景勝の海岸があるのは、なかなかいい環境です。ところが高台のホテルからは、丘にある緑の松越しにみる白い砂浜の桂浜はきれいなのですが、その向こうに見える防波堤はやはり違和感があります。
桂浜に立っても、北(市街地ある方)を見ると、防波堤や堤防などコンクリートや岩石による人工物が海岸を覆っています。景勝地に、なぜこのような人工物かあるのだろうかと思うのですが、地形図をみるとその理由がわかります。
人工物は、湾の入り口を守っているのです。堤防の奥は、狭い海峡をもつ浦戸湾となっています。桂浜に至る県道14号線で渡った橋も、この海峡にかけられたものです。湾の一番奥に、鏡川などの河川が形成している平野があります。この平野部は東西に広がっています。そこが高知の市街地となっています。
海岸側には、海岸線と平行に小高い丘陵が点々と並んでいます。丘陵地の奥(北側)に、平野部が広がっています。高知市がある周辺は、海岸に平行に、丘陵、平野、そして山地が東西に並ぶような地形になっています。
東西にならぶ地形は、地質構造の影響を受けていてできています。このエッセイで何度もでてきましたが、四国の南部は東西に並んで形成された付加体である四万十層群が分布しているところで四万十帯と呼ばれています。桂浜から高知市街の平野の南端の丘陵までは四万十帯になっているのですが、その北側の平野は全く違った地質が分布しています。つまり、丘陵が四万十帯の北の境界部にあたることになります。
四国の地図をみると、高知県の海岸は、土佐湾を囲むように北に湾曲しており、東の室戸岬、西の足摺岬が海側に出っぱっています。出っぱりの部分は四万十層群が広く分布しています。一方、四万十層群の一番狭い部分が土佐湾の奥まったところにあたります。そこが高知市のある桂浜に当たります。ですから広く分布している四万十層群も、高知市では幅が狭く薄くしか出ていなのです。
四万十層群の北には秩父層群と呼ばれる古い付加体があり、秩父帯と呼ばれています。そして秩父帯の中には、黒瀬川構造帯が点在します。黒瀬川構造帯は、古い時代に形成された、起源も少々変わった異質な岩石類からできています。市街の奥まった丘に高知城がありますが、黒瀬川構造帯の上に築かれています。まあ、これはまた別の機会の話としましょう。
高知平野の手前にある丘陵までが四万十帯で、丘陵の端から平野にかけて秩父帯となり、平野の北側には黒瀬川構造帯が分布しています。秩父帯も黒瀬川構造帯も東西に並んで分布しています。
桂浜の丘は、そんな四万十帯の丘陵の最前部となっています。16世紀はじめには、この丘の上に本山氏が海側の守りとして浦戸城が築かれて、16世紀終わりには長宗我部氏が用いていたそうです。そんな解説板を読んでいると、幾筋かの丘陵群自体が、守りの要所であることがわかりました。
そうなると最前線部に立つ、天然の海岸と平行して並ぶ丘陵は擁壁、高知の市街地の後ろの黒瀬川構造帯も後衛の陣で、そして黒瀬川構造帯の最前部が高知城で本陣となっています。東西に伸びた秩父帯が本陣を守る陣、そして四万十帯が最も前の陣で、桂浜がある丘は、常に海に向かって警戒している最前線の陣です。地形や地質が、高知の市街地を取り囲むように幾重にも並んだ守りの陣立てにも思えました。
現在では、桂浜の地は、防災の要所でもあるのです。防波堤に囲まれた浦戸湾には高知港があり、湾の最奥部に高知の市街地があります。昔の人もその地形を利用していました。今では坂本龍馬が青雲の志を抱きながら南の海に向かって立つ、明治維新の象徴の場となっています。
桂浜は、自然の織りなす美しさと、自然の脅威への人知と天然による守りの陣の両方をみることができるところもであるようです。
・中秋の名月・
私が調査の最終日にとまったときは、9月の中秋の名月は終わっていました。
中秋の日には桂浜に灯りがともされ名月をめでる催しがありました。
ところが、あいにくの曇り空で月がよく見えなかったようです。
私がとまったのは中秋の翌日でイベントは終わっていたのですが、
よく晴れた月の綺麗に見えるよるでした。
そんな十六夜(いざよい)の月をホテルの窓から見ることができました。
・不幸中の幸い・
名月を見るなら、ホテルの窓越しより桂浜に出て見たほうがいいはずです。
それができない事情がありました。
実はぎっくり腰で動きがままならないまま行動していました。
帰る飛行機の便まで腰をいたわりながら日程を過ごしていたのです。
8日間の調査の6日目にぎっくり腰なったのです。
調査の目的を順調にこなし、最後の目的地の調査をするために
急な崖を降りている時、ぎっくり腰なりました。
痛みを感じながら、ゆっくりと崖をのぼって車にたどり着きました。
幸い車に座っている分には、痛みがあまりなく移動できました。
ですから最後のホテルも本来は一番安い部屋を頼んでいたのですが、
和室での寝起きは辛いので、ベットのある部屋を頼みました。
そこは高い部屋で一番眺めのいいところでした。
桂浜の名月も浜に降りることなく、部屋から見ることができたのです。
これは、不幸中の幸いなのでしょうね。
桂浜は、観光地として有名です。そんな観光地でもあるのに、人目にふれるところに大規模な防波堤などの人工物があります。そこには、人が自然の地形を古くから利用してきた歴史を感じ取ることができました。
9月の調査では、日程と時間の都合で、桂浜の宿に到着時と出発時の2度同じ所に泊まりました。結果としてそれがよかったのですが、それは後の話しです。
さて、私の興味は、景勝の地の背景にある自然、そして露頭です。自然によって成り立っている景勝地は、たいてい岩石や地層が、その基礎となっています。桂浜もそうです。丘や岩礁に岩石ができています。
高知空港から桂浜に向かうときは海岸を県道14号線(黒潮ライン)で進むことになります。14号線を東に向かうと、平野からやがて海と丘陵に囲まれた海岸を進み、そして小高い丘に至る直前に橋を渡ります。一見河口にみえるような狭いところに掛かる橋ですが、それは湾のくびれとなっています。橋を渡り丘を回ったところが桂浜になります。小雨の中、まずは宿泊地のホテルに向かいました。丘の上に来るのは初めてです。ホテルの横には、高知県立坂本龍馬記念館があります。雨の日の夕方なので、この記念館を見ました。
桂浜は、以前に一度みにきていて、あまり岩石がよく見えない海岸なので、地質学的にはあまり興味が湧かないところです。地質の見学には、高知市から少し離れれば、自然の砂浜、岩場などがいっぱい広がっていて、似た地層がよく見れるところがあるのですから。
それでも桂浜は、有名な観光地でもあり、朝、時間があったので、見学しました。丸く湾曲した砂地浜の海岸、その先に突き出た岩礁、後ろに小高くそびえる丘などが、狭い地域に多様な要素が組み込まれています。丘には松の緑が覆います。砂の白、海の碧、空の青とのコントラストもきれいです。岩礁や丘の上から桂浜を眺めると、海岸線の優雅な幾何学的カーブ、水平線のあるかないかの緩やかな湾曲とが見てとれます。自然の織りなす変化に富んだ景勝の地でもあります。
高知の市街地のすぐ近くにこのような景勝の海岸があるのは、なかなかいい環境です。ところが高台のホテルからは、丘にある緑の松越しにみる白い砂浜の桂浜はきれいなのですが、その向こうに見える防波堤はやはり違和感があります。
桂浜に立っても、北(市街地ある方)を見ると、防波堤や堤防などコンクリートや岩石による人工物が海岸を覆っています。景勝地に、なぜこのような人工物かあるのだろうかと思うのですが、地形図をみるとその理由がわかります。
人工物は、湾の入り口を守っているのです。堤防の奥は、狭い海峡をもつ浦戸湾となっています。桂浜に至る県道14号線で渡った橋も、この海峡にかけられたものです。湾の一番奥に、鏡川などの河川が形成している平野があります。この平野部は東西に広がっています。そこが高知の市街地となっています。
海岸側には、海岸線と平行に小高い丘陵が点々と並んでいます。丘陵地の奥(北側)に、平野部が広がっています。高知市がある周辺は、海岸に平行に、丘陵、平野、そして山地が東西に並ぶような地形になっています。
東西にならぶ地形は、地質構造の影響を受けていてできています。このエッセイで何度もでてきましたが、四国の南部は東西に並んで形成された付加体である四万十層群が分布しているところで四万十帯と呼ばれています。桂浜から高知市街の平野の南端の丘陵までは四万十帯になっているのですが、その北側の平野は全く違った地質が分布しています。つまり、丘陵が四万十帯の北の境界部にあたることになります。
四国の地図をみると、高知県の海岸は、土佐湾を囲むように北に湾曲しており、東の室戸岬、西の足摺岬が海側に出っぱっています。出っぱりの部分は四万十層群が広く分布しています。一方、四万十層群の一番狭い部分が土佐湾の奥まったところにあたります。そこが高知市のある桂浜に当たります。ですから広く分布している四万十層群も、高知市では幅が狭く薄くしか出ていなのです。
四万十層群の北には秩父層群と呼ばれる古い付加体があり、秩父帯と呼ばれています。そして秩父帯の中には、黒瀬川構造帯が点在します。黒瀬川構造帯は、古い時代に形成された、起源も少々変わった異質な岩石類からできています。市街の奥まった丘に高知城がありますが、黒瀬川構造帯の上に築かれています。まあ、これはまた別の機会の話としましょう。
高知平野の手前にある丘陵までが四万十帯で、丘陵の端から平野にかけて秩父帯となり、平野の北側には黒瀬川構造帯が分布しています。秩父帯も黒瀬川構造帯も東西に並んで分布しています。
桂浜の丘は、そんな四万十帯の丘陵の最前部となっています。16世紀はじめには、この丘の上に本山氏が海側の守りとして浦戸城が築かれて、16世紀終わりには長宗我部氏が用いていたそうです。そんな解説板を読んでいると、幾筋かの丘陵群自体が、守りの要所であることがわかりました。
そうなると最前線部に立つ、天然の海岸と平行して並ぶ丘陵は擁壁、高知の市街地の後ろの黒瀬川構造帯も後衛の陣で、そして黒瀬川構造帯の最前部が高知城で本陣となっています。東西に伸びた秩父帯が本陣を守る陣、そして四万十帯が最も前の陣で、桂浜がある丘は、常に海に向かって警戒している最前線の陣です。地形や地質が、高知の市街地を取り囲むように幾重にも並んだ守りの陣立てにも思えました。
現在では、桂浜の地は、防災の要所でもあるのです。防波堤に囲まれた浦戸湾には高知港があり、湾の最奥部に高知の市街地があります。昔の人もその地形を利用していました。今では坂本龍馬が青雲の志を抱きながら南の海に向かって立つ、明治維新の象徴の場となっています。
桂浜は、自然の織りなす美しさと、自然の脅威への人知と天然による守りの陣の両方をみることができるところもであるようです。
・中秋の名月・
私が調査の最終日にとまったときは、9月の中秋の名月は終わっていました。
中秋の日には桂浜に灯りがともされ名月をめでる催しがありました。
ところが、あいにくの曇り空で月がよく見えなかったようです。
私がとまったのは中秋の翌日でイベントは終わっていたのですが、
よく晴れた月の綺麗に見えるよるでした。
そんな十六夜(いざよい)の月をホテルの窓から見ることができました。
・不幸中の幸い・
名月を見るなら、ホテルの窓越しより桂浜に出て見たほうがいいはずです。
それができない事情がありました。
実はぎっくり腰で動きがままならないまま行動していました。
帰る飛行機の便まで腰をいたわりながら日程を過ごしていたのです。
8日間の調査の6日目にぎっくり腰なったのです。
調査の目的を順調にこなし、最後の目的地の調査をするために
急な崖を降りている時、ぎっくり腰なりました。
痛みを感じながら、ゆっくりと崖をのぼって車にたどり着きました。
幸い車に座っている分には、痛みがあまりなく移動できました。
ですから最後のホテルも本来は一番安い部屋を頼んでいたのですが、
和室での寝起きは辛いので、ベットのある部屋を頼みました。
そこは高い部屋で一番眺めのいいところでした。
桂浜の名月も浜に降りることなく、部屋から見ることができたのです。
これは、不幸中の幸いなのでしょうね。
2014年8月15日金曜日
116 羽根岬:正常と異常
高知県室戸市の羽根岬では、付加体堆積物が見ることができます。すぐ近くでは海成正常堆積物もみることができます。しかし、私には、付加体堆積物に興味があります。
高知の室戸岬に向かう国道55号線の通り道で、安芸(あき)郡奈半利(なはり)町の加領郷(かりょうごう)の漁港から、室戸市にはいってすぐのところにある羽根(はね)岬の漁港までのあいだの海岸には、岩礁地帯があります。ここが、今日紹介するところです。
羽根岬は、室戸ジオパークのサイトの一つに選ばれているところでもあります。国道沿いにあるパークエリアが整備されていて、岩礁地帯へのアプローチはしやすくなっています。
羽根岬で、私が見たかったのは、この海岸沿いの岩礁となっている地層です。このエッセイではよくでてくるタービダイト層とよばれるもので形成されています。
タービダイト層とは、河口や海岸などの沿岸にたまった堆積物が、なんらかのきっかけで大陸斜面を流れ下り、より深い海底に持たられたたものです。この海底での流れ(重力密度流とよばれています)がタービダイトになります。タービダイトは、かなり緩い傾斜でも流れ、平坦になったところでやっととまります。ですから、タービダイト層がたまるのは、大陸斜面の平になった盆地や時には海溝の一番低いとろこまで達します。
タービダイト層は、深い海底にたまった堆積物となります。土砂の供給源やタービダイトの流れの様子、溜まる場所、そして現在見ている地層の部分によって、タービダイト層の見え方が変わってきます。
羽根岬の地層では、砂岩と泥岩の繰り返しがの間隔が、比較的大きくなっています。つまり、タービダイト層の一つのサイクルで、多くの堆積物がある場を見ていることになります。以前紹介したもう少し南の行頭(ぎょうとう)では、地層の厚さはもっと薄いものでした。このような地層の産状の違いが、過去を復元するとき、有用な情報になります。
もうひとつ重要なことは、地層全般にいえることですが、過去の環境を示す情報を保存していることです。一番新しいタービダイトが、その時の海底となります。そこに、その当時の生物の暮らしを物語る化石が見つかることがあります。タービダイトとともに流れてきた化石は、この海底に住んでいたものではなく、他の場所がからもたらされたものです。このような移動してきた化石を、異地性化石といいます。その場に住んでいた生物は、現地性化石といいます。
羽根岬では、現地性化石をみることができます。実は化石とはいっても、生物の体の一部が残っているあるわけでありません。這った跡や巣穴の跡などです。このような生活の跡も、化石として扱われています。生物が住み、その海底の状態が破壊されることなく地層になれば、生痕化石として保存されることになりますが、その条件をみたすことはあまり多くありません。ただし、行頭などのタービダイト層でも、生痕化石は見ることができます。
付加体の構成物であるタービダイト層は、通常の地層とは、違ったできたかをします。タービダイト層は深い海底にたまり、そのままであれば通常の地層となるのですが、地質学的な位置が問題です。沈み込み帯の陸側にたまったものの多くは、付加作用を受けます。これが、通常の地層との違いを生み出します。
付加体では、新しい地層が古い地層の下に、押し込まれていきます。もともとは古い地層が下、新しい地層が上という順でたまったものが、逆転しています。つまり、北(陸側)ほど見かけ上、上位の地層になるのですが、時代としてより古い地層がでます。このような特異な特徴やでき方をした堆積物を「付加体堆積物」として、通常の地層とは区別していしています。付加体堆積物の認定にともなって、通常の堆積物は正常堆積物と呼ばれるようになりました。
羽根岬は、室戸岬などと比べて海溝から遠い位置にあります。ですから、より古い地層が出ていることになります。室戸岬の付加体が、4000万~2200万年前(後期始新世から前期中新世)なのですが、羽根岬の地層は5200万~3200万年前(中期始新世から前期漸新世)と、1000万年くらい古い時代にできていることがわかっています。
日本列島は、付加体堆積物が多くを占めていることが知られています。日本列島の西半分のうち太平洋に面した地域では、正常堆積物が少なく、特に海でたまった(海成)正常堆積物は非常に少くなっています。
地質学者たちは、羽根岬周辺では、新しい時代の海成正常堆積物からなる地層がみられることで注目しています。「唐の浜層群」とよばれるもので、四国では唯一の海成正常堆積物となっています。同様の地層は、静岡の掛川層群や九州の宮崎層群、沖縄の島尻層群などしかありません。珍しい地層となっています。
室戸地域が、特異な地質条件に置かれているためです。海成堆積層は海岸沿いにたまります。海退が激しい地域、つまり大地が上昇しているようなところでは、海の地層がタービダイトとして海底に運ばれる前に、持ち上げられるような条件を満たす地域となります。室戸周辺は、上昇している地帯となります。この話は、別の機会としましょう。
さて、正常の反語は異常です。ですから、正常堆積物に対して、異常堆積物といいたいことろですが、それでは日本列島の重要な構成岩石が、不当な扱いを受けてしまいます。ですから、付加体堆積物という名称が用いられています。日本では、堆積物として付加体堆積物が当たり前の分布しているのですが、大陸地域では、正常堆積物が通常で、付加体堆積物は異常な堆積物にみえる地域もあります。日本列島は、付加体と共に成長してきた大地の歴史があります。これは地域の個性ですので、仕方がありません。
残念ながら、私は、唐の浜層群は見ていないので、また機会があれば見に行ければと思っています。今の興味は付加体堆積物の方なので、いつになることでしょうか。
・故郷として・
高知は私の好きな地域となっています。
以前愛媛に住んでいたせいでしょうか、
高知には馴染みがあります。
愛媛はだいぶ堪能したので、
次は高知という思いもあります。
海があり、山もあり、そして自然が豊富に残されている
そんな地域に私は魅力を感じます。
この条件を高知も満たしています。
住みたい地域でもあります。
しかし、今は北海道に住み、終の住まいと思っています。
ですから、第二の故郷、第三の故郷として
愛媛や高知を思っています。
ですから、調査をするときは
ついつい高知を選んでしまいます。
・暑い時期は終わった?・
北海道は台風が去ったあとは、
暑さのピークも過ぎて、
過ごしやすい夏の終わりに向かう
気候となてきたようです。
北海道以南の地域の人は、
まだ残暑が厳しいことでしょう。
私は、まだ夏休みがとれません。
もしかすると、夏休みはとれないかもしれません。
9月には、調査に1週間ほど出る予定ですが、
それまで次々と仕事があります。
頭を切り替える時間、論文を書く時間がありません。
なんとか、次なる目標に向かって行きたいのですが。
高知の室戸岬に向かう国道55号線の通り道で、安芸(あき)郡奈半利(なはり)町の加領郷(かりょうごう)の漁港から、室戸市にはいってすぐのところにある羽根(はね)岬の漁港までのあいだの海岸には、岩礁地帯があります。ここが、今日紹介するところです。
羽根岬は、室戸ジオパークのサイトの一つに選ばれているところでもあります。国道沿いにあるパークエリアが整備されていて、岩礁地帯へのアプローチはしやすくなっています。
羽根岬で、私が見たかったのは、この海岸沿いの岩礁となっている地層です。このエッセイではよくでてくるタービダイト層とよばれるもので形成されています。
タービダイト層とは、河口や海岸などの沿岸にたまった堆積物が、なんらかのきっかけで大陸斜面を流れ下り、より深い海底に持たられたたものです。この海底での流れ(重力密度流とよばれています)がタービダイトになります。タービダイトは、かなり緩い傾斜でも流れ、平坦になったところでやっととまります。ですから、タービダイト層がたまるのは、大陸斜面の平になった盆地や時には海溝の一番低いとろこまで達します。
タービダイト層は、深い海底にたまった堆積物となります。土砂の供給源やタービダイトの流れの様子、溜まる場所、そして現在見ている地層の部分によって、タービダイト層の見え方が変わってきます。
羽根岬の地層では、砂岩と泥岩の繰り返しがの間隔が、比較的大きくなっています。つまり、タービダイト層の一つのサイクルで、多くの堆積物がある場を見ていることになります。以前紹介したもう少し南の行頭(ぎょうとう)では、地層の厚さはもっと薄いものでした。このような地層の産状の違いが、過去を復元するとき、有用な情報になります。
もうひとつ重要なことは、地層全般にいえることですが、過去の環境を示す情報を保存していることです。一番新しいタービダイトが、その時の海底となります。そこに、その当時の生物の暮らしを物語る化石が見つかることがあります。タービダイトとともに流れてきた化石は、この海底に住んでいたものではなく、他の場所がからもたらされたものです。このような移動してきた化石を、異地性化石といいます。その場に住んでいた生物は、現地性化石といいます。
羽根岬では、現地性化石をみることができます。実は化石とはいっても、生物の体の一部が残っているあるわけでありません。這った跡や巣穴の跡などです。このような生活の跡も、化石として扱われています。生物が住み、その海底の状態が破壊されることなく地層になれば、生痕化石として保存されることになりますが、その条件をみたすことはあまり多くありません。ただし、行頭などのタービダイト層でも、生痕化石は見ることができます。
付加体の構成物であるタービダイト層は、通常の地層とは、違ったできたかをします。タービダイト層は深い海底にたまり、そのままであれば通常の地層となるのですが、地質学的な位置が問題です。沈み込み帯の陸側にたまったものの多くは、付加作用を受けます。これが、通常の地層との違いを生み出します。
付加体では、新しい地層が古い地層の下に、押し込まれていきます。もともとは古い地層が下、新しい地層が上という順でたまったものが、逆転しています。つまり、北(陸側)ほど見かけ上、上位の地層になるのですが、時代としてより古い地層がでます。このような特異な特徴やでき方をした堆積物を「付加体堆積物」として、通常の地層とは区別していしています。付加体堆積物の認定にともなって、通常の堆積物は正常堆積物と呼ばれるようになりました。
羽根岬は、室戸岬などと比べて海溝から遠い位置にあります。ですから、より古い地層が出ていることになります。室戸岬の付加体が、4000万~2200万年前(後期始新世から前期中新世)なのですが、羽根岬の地層は5200万~3200万年前(中期始新世から前期漸新世)と、1000万年くらい古い時代にできていることがわかっています。
日本列島は、付加体堆積物が多くを占めていることが知られています。日本列島の西半分のうち太平洋に面した地域では、正常堆積物が少なく、特に海でたまった(海成)正常堆積物は非常に少くなっています。
地質学者たちは、羽根岬周辺では、新しい時代の海成正常堆積物からなる地層がみられることで注目しています。「唐の浜層群」とよばれるもので、四国では唯一の海成正常堆積物となっています。同様の地層は、静岡の掛川層群や九州の宮崎層群、沖縄の島尻層群などしかありません。珍しい地層となっています。
室戸地域が、特異な地質条件に置かれているためです。海成堆積層は海岸沿いにたまります。海退が激しい地域、つまり大地が上昇しているようなところでは、海の地層がタービダイトとして海底に運ばれる前に、持ち上げられるような条件を満たす地域となります。室戸周辺は、上昇している地帯となります。この話は、別の機会としましょう。
さて、正常の反語は異常です。ですから、正常堆積物に対して、異常堆積物といいたいことろですが、それでは日本列島の重要な構成岩石が、不当な扱いを受けてしまいます。ですから、付加体堆積物という名称が用いられています。日本では、堆積物として付加体堆積物が当たり前の分布しているのですが、大陸地域では、正常堆積物が通常で、付加体堆積物は異常な堆積物にみえる地域もあります。日本列島は、付加体と共に成長してきた大地の歴史があります。これは地域の個性ですので、仕方がありません。
残念ながら、私は、唐の浜層群は見ていないので、また機会があれば見に行ければと思っています。今の興味は付加体堆積物の方なので、いつになることでしょうか。
・故郷として・
高知は私の好きな地域となっています。
以前愛媛に住んでいたせいでしょうか、
高知には馴染みがあります。
愛媛はだいぶ堪能したので、
次は高知という思いもあります。
海があり、山もあり、そして自然が豊富に残されている
そんな地域に私は魅力を感じます。
この条件を高知も満たしています。
住みたい地域でもあります。
しかし、今は北海道に住み、終の住まいと思っています。
ですから、第二の故郷、第三の故郷として
愛媛や高知を思っています。
ですから、調査をするときは
ついつい高知を選んでしまいます。
・暑い時期は終わった?・
北海道は台風が去ったあとは、
暑さのピークも過ぎて、
過ごしやすい夏の終わりに向かう
気候となてきたようです。
北海道以南の地域の人は、
まだ残暑が厳しいことでしょう。
私は、まだ夏休みがとれません。
もしかすると、夏休みはとれないかもしれません。
9月には、調査に1週間ほど出る予定ですが、
それまで次々と仕事があります。
頭を切り替える時間、論文を書く時間がありません。
なんとか、次なる目標に向かって行きたいのですが。
2014年7月15日火曜日
115 牟岐:人知れないトンボロ
牟岐の海岸には、子どもたちが海遊びするのに適した海岸や磯、島、そして山もあります。それを利用して子どもに野外体験をする施設もあります。そんな牟岐の海岸に人知れずトンボロ現象が潜んでいました。さて、この現象は、一時的なものなのでしょうか。それとも、あまりに小規模すぎるものなのでしょか。
徳島県の国道55号より太平洋岸沿いを通る県道147号は、南阿波サンラインと呼ばれ、なかなか心地よい道路です。徳島県から高知県にかけての海岸は、室戸阿南海岸国定公園に指定されていて、徳島県海部郡牟岐(むぎ)町は海と山での野外活動の拠点として重要な位置にあります。
牟岐町灘の東で、南阿波サンラインからはずれて海に向かうと、「徳島県立牟岐少年自然の家」という施設があります。その施設のすぐ前の海側には「モラスコむぎ」があります。
「モラスコむぎ」林業木材を進行するための事業で建てられた施設で、巻貝と二枚貝を形どったデザインです。二枚貝の方が水族館になっており、巻き貝の方が事務室やダイビング施設になっています。建物からすぐ前の海にでることができます。ダイビングもできるようなっています。「モラスコむぎ」の水族館は、以前来た時見学したので、今回は寄らずに、海岸にでました。
「モラスコむぎ」から海にでると、海岸を挟んで、少し先に島があります。松ヶ磯と呼ばれています。この磯を見に来ました。
本エッセイでも何度も取り上げていますが、徳島県の太平洋側には、四万十層群と呼ばれる地層が分布しています。四万十層群は付加体という仕組みでできたものです。海洋プレートが南海トラフに沈み込むとき、陸側のプレートは押されて、さまざまな地質現象を起こします。陸側の地層の圧縮と変形、海側のプレートの上部の剥ぎ取りなどが起こり、それらが混在して陸側に付加していきます。それが付加体というものになり、日本列島の地質の重要なメカニズムになっています。
陸側の地層は、タービダイトでできています。タービダイトは、陸から河川によって河口付近の海底に運ばれた堆積物が、地震や洪水などを契機に、海底地すべりで、海溝に向かって大陸斜面を流れ下ります。タービダイトにより、砂岩から泥岩までの一枚の地層ができます。長い時間でみると、大陸斜面の平らなところや海底の盆地には、次々とタービダイトがきて、砂岩泥岩の地層が重なっていきます。それが砂岩泥岩の繰り返しの地層となり「互層(ごうそう)」とよばれます。
付加体には陸側のものと海側のものが混在することになりますが、海側の岩石は、層状のチャートや石灰岩、玄武岩などで、陸の互層とは容易に区分できます。
付加体の中には、陸側の地層だけをとってみて、整然と残っているところから、乱れてて激しく褶曲しているところ、断層などでズタズタに切られているところ、海洋プレートからの岩石と混在してコチャゴチャになっているところなど、見かけは大きく変化していきます。いずれも付加という作用でできます。
牟岐の松ヶ磯は、海食台になっていて、平らな海岸で地層を見ることができます。海岸で地層を観察することにしましょう。ここには、海洋プレート側の岩石はなく、陸側のタービダイトの地層だけがでています。
もともとは砂岩と泥岩の互層のはずのですが、今では、岩石の種類は見分けられますが、構造は激しく破砕されています。弱い泥岩には小さな断層(剪断(せんだん)といいます)が一杯できています。比較的強い砂岩も、地層が曲がりくねったり、壊されて切れ切れになっています。これは、付加体の中で互層がかなり壊されている部分です。
この松ヶ磯は、潮が満ちているときは海の中の島になり、潮が引くと陸続きになります。私が訪れた時は、潮が満ちつつある時間帯で、砂洲の上を波がかぶっていました。砂洲の両側から波が満ちてきて、不思議な波模様になっていました。
私は、そんな波を見ながら、渡るのを躊躇しました。松ヶ磯の海食台の一番遠くのとこには、釣り人がいたのですが、彼ら釣り人は、地元のことをよく知っていて、潮が満ちてきても、次に引き潮の時間までじっくり釣りをしているかもしれません。あてにはできません。もし渡ってから満潮になってしまい、濡れないと戻れなくなると嫌なので、渡るのを躊躇していました。
小さな孫を連れたおじいさんが、海岸に遊びに来ていました。孫とおじいさんは、最初は海岸沿いで遊んでいたのですが、波の合間をぬって私の目の前で、松ヶ磯に渡りました。そして松ヶ磯の海食台で遊んでいました。
これを見て、私も安心して渡ることにしました。海食台にはタイドプールがいくつもあり、磯遊びするにはうってつけのところのようです。もちろん私は地層をみたのですが。
島が、潮の満引きよって、陸につながったり島になったりするのは、トンボロ(tombolo)現象といい、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)と呼ばれています。いくつかの地理的条件を満たした時、トンボロ現象が起こります。ただし、時間とともに砂が多くなれば、トンボロは陸繋島となり、砂が減れば普通の島になります。ですから、一時的な地形の特徴でもあります。
いろいろ調べたのですが、松ヶ磯のトンボロ現象について説明しているものがどこにも見つかりませんでした。もっと探せば見つかるのかもしれませんが、時間切れとなりました。国土地理院の技術資料の「日本の典型地形」にも、徳島では、宍喰(ししくい)のトンボロは記載されているのですが、牟岐には特徴的な地形はありませんでした。もしかすると最近、トンボロになったのかもしれませんが、それはあまり考えられません。
松ヶ磯は、多分、磯と呼ばれているように、丘のようになってい森が茂っていますが、島という大きさもないほど小さいため、島ではなく、岩礁とみなされているでしょうか。しかし、地形区分の定義の上では、トンボロと呼んでいいと思うですが・・・。
小規模で距離が近いので、松ヶ磯にはすぐに渡れて危険がありません。このトンボロも楽しい磯遊びの場になるような気がします。磯遊びのついでに、地層もみれればいいのですが、ここは典型的な互層の地層ではなく、乱れた地層の観察になります。でも、剪断された砂岩泥岩の互層をみて、付加体からプレート運動に思いを馳せるのは、マニアックすぎるでしょうかね。
・論文・
北海道も夏らいしい暑い日が続きます。
私は、7月になてってから、論文作成のために四苦八苦していました。
今回の論文にも手こずりました。
でも、以前から漠然と考えていた考察を
まとめることができました。
現段階で考えられる内容をまとめました。
少々課題が残りましたが、
それは次の論文のネタになるはずです。
私のテーマは、3、4つの互いに関連はしているのですが、
毛色の違う研究を平行してい進めています。
このエッセイを書いているときは、
まだ最後の詰めの段階ですが
エッセイが届く頃には出来上がって
手放していることと思っています。
・忙しい夏に・
いよいよ世間は夏休みが近いようで
浮かれている人もいるのではないでしょうか。
大学は、8月上旬まで定期試験があり、
私は、ある学会の副実行委員長を仰せつかっているので、
その後、数日はバタバタします。
そしてお盆明けには大学の成績提出です。
8月下旬には入試と保護者のために
地方を毎週週末に出張します。
その隙間をぬって、1週間ほどの調査にでます。
それを楽しみに夏を過ごすことになりそうです。
9月から10月にかけては、
教育実習の指導のいくつか入ります。
今年も忙しい夏になりそうです。
徳島県の国道55号より太平洋岸沿いを通る県道147号は、南阿波サンラインと呼ばれ、なかなか心地よい道路です。徳島県から高知県にかけての海岸は、室戸阿南海岸国定公園に指定されていて、徳島県海部郡牟岐(むぎ)町は海と山での野外活動の拠点として重要な位置にあります。
牟岐町灘の東で、南阿波サンラインからはずれて海に向かうと、「徳島県立牟岐少年自然の家」という施設があります。その施設のすぐ前の海側には「モラスコむぎ」があります。
「モラスコむぎ」林業木材を進行するための事業で建てられた施設で、巻貝と二枚貝を形どったデザインです。二枚貝の方が水族館になっており、巻き貝の方が事務室やダイビング施設になっています。建物からすぐ前の海にでることができます。ダイビングもできるようなっています。「モラスコむぎ」の水族館は、以前来た時見学したので、今回は寄らずに、海岸にでました。
「モラスコむぎ」から海にでると、海岸を挟んで、少し先に島があります。松ヶ磯と呼ばれています。この磯を見に来ました。
本エッセイでも何度も取り上げていますが、徳島県の太平洋側には、四万十層群と呼ばれる地層が分布しています。四万十層群は付加体という仕組みでできたものです。海洋プレートが南海トラフに沈み込むとき、陸側のプレートは押されて、さまざまな地質現象を起こします。陸側の地層の圧縮と変形、海側のプレートの上部の剥ぎ取りなどが起こり、それらが混在して陸側に付加していきます。それが付加体というものになり、日本列島の地質の重要なメカニズムになっています。
陸側の地層は、タービダイトでできています。タービダイトは、陸から河川によって河口付近の海底に運ばれた堆積物が、地震や洪水などを契機に、海底地すべりで、海溝に向かって大陸斜面を流れ下ります。タービダイトにより、砂岩から泥岩までの一枚の地層ができます。長い時間でみると、大陸斜面の平らなところや海底の盆地には、次々とタービダイトがきて、砂岩泥岩の地層が重なっていきます。それが砂岩泥岩の繰り返しの地層となり「互層(ごうそう)」とよばれます。
付加体には陸側のものと海側のものが混在することになりますが、海側の岩石は、層状のチャートや石灰岩、玄武岩などで、陸の互層とは容易に区分できます。
付加体の中には、陸側の地層だけをとってみて、整然と残っているところから、乱れてて激しく褶曲しているところ、断層などでズタズタに切られているところ、海洋プレートからの岩石と混在してコチャゴチャになっているところなど、見かけは大きく変化していきます。いずれも付加という作用でできます。
牟岐の松ヶ磯は、海食台になっていて、平らな海岸で地層を見ることができます。海岸で地層を観察することにしましょう。ここには、海洋プレート側の岩石はなく、陸側のタービダイトの地層だけがでています。
もともとは砂岩と泥岩の互層のはずのですが、今では、岩石の種類は見分けられますが、構造は激しく破砕されています。弱い泥岩には小さな断層(剪断(せんだん)といいます)が一杯できています。比較的強い砂岩も、地層が曲がりくねったり、壊されて切れ切れになっています。これは、付加体の中で互層がかなり壊されている部分です。
この松ヶ磯は、潮が満ちているときは海の中の島になり、潮が引くと陸続きになります。私が訪れた時は、潮が満ちつつある時間帯で、砂洲の上を波がかぶっていました。砂洲の両側から波が満ちてきて、不思議な波模様になっていました。
私は、そんな波を見ながら、渡るのを躊躇しました。松ヶ磯の海食台の一番遠くのとこには、釣り人がいたのですが、彼ら釣り人は、地元のことをよく知っていて、潮が満ちてきても、次に引き潮の時間までじっくり釣りをしているかもしれません。あてにはできません。もし渡ってから満潮になってしまい、濡れないと戻れなくなると嫌なので、渡るのを躊躇していました。
小さな孫を連れたおじいさんが、海岸に遊びに来ていました。孫とおじいさんは、最初は海岸沿いで遊んでいたのですが、波の合間をぬって私の目の前で、松ヶ磯に渡りました。そして松ヶ磯の海食台で遊んでいました。
これを見て、私も安心して渡ることにしました。海食台にはタイドプールがいくつもあり、磯遊びするにはうってつけのところのようです。もちろん私は地層をみたのですが。
島が、潮の満引きよって、陸につながったり島になったりするのは、トンボロ(tombolo)現象といい、日本語では陸繋砂州(りくけいさす)と呼ばれています。いくつかの地理的条件を満たした時、トンボロ現象が起こります。ただし、時間とともに砂が多くなれば、トンボロは陸繋島となり、砂が減れば普通の島になります。ですから、一時的な地形の特徴でもあります。
いろいろ調べたのですが、松ヶ磯のトンボロ現象について説明しているものがどこにも見つかりませんでした。もっと探せば見つかるのかもしれませんが、時間切れとなりました。国土地理院の技術資料の「日本の典型地形」にも、徳島では、宍喰(ししくい)のトンボロは記載されているのですが、牟岐には特徴的な地形はありませんでした。もしかすると最近、トンボロになったのかもしれませんが、それはあまり考えられません。
松ヶ磯は、多分、磯と呼ばれているように、丘のようになってい森が茂っていますが、島という大きさもないほど小さいため、島ではなく、岩礁とみなされているでしょうか。しかし、地形区分の定義の上では、トンボロと呼んでいいと思うですが・・・。
小規模で距離が近いので、松ヶ磯にはすぐに渡れて危険がありません。このトンボロも楽しい磯遊びの場になるような気がします。磯遊びのついでに、地層もみれればいいのですが、ここは典型的な互層の地層ではなく、乱れた地層の観察になります。でも、剪断された砂岩泥岩の互層をみて、付加体からプレート運動に思いを馳せるのは、マニアックすぎるでしょうかね。
・論文・
北海道も夏らいしい暑い日が続きます。
私は、7月になてってから、論文作成のために四苦八苦していました。
今回の論文にも手こずりました。
でも、以前から漠然と考えていた考察を
まとめることができました。
現段階で考えられる内容をまとめました。
少々課題が残りましたが、
それは次の論文のネタになるはずです。
私のテーマは、3、4つの互いに関連はしているのですが、
毛色の違う研究を平行してい進めています。
このエッセイを書いているときは、
まだ最後の詰めの段階ですが
エッセイが届く頃には出来上がって
手放していることと思っています。
・忙しい夏に・
いよいよ世間は夏休みが近いようで
浮かれている人もいるのではないでしょうか。
大学は、8月上旬まで定期試験があり、
私は、ある学会の副実行委員長を仰せつかっているので、
その後、数日はバタバタします。
そしてお盆明けには大学の成績提出です。
8月下旬には入試と保護者のために
地方を毎週週末に出張します。
その隙間をぬって、1週間ほどの調査にでます。
それを楽しみに夏を過ごすことになりそうです。
9月から10月にかけては、
教育実習の指導のいくつか入ります。
今年も忙しい夏になりそうです。
2014年6月15日日曜日
114 南阿波サンライン:メランジュ
徳島の太平洋側には、南阿波サンラインという道路があります。道は整備されているのですが、交通量も少なく、天気が良い日は、快適なドライブコースとなります。この道は景観だけでなく、地質の見どころもあります。
徳島県海部郡の美波町から牟岐町にかけての海岸は、山が迫っており、切り立った険しい崖が続くところが多くなります。そのような険しい海岸に、内陸を走る国道55号から分かれた南阿波サンラインがあります。南阿波サンラインは、整備されているのですが、交通量が少ないので、景色を眺めながらのドライブにはいいところです。
切り立った海岸線の形成には、地質学的な理由があります。このあたりの地層は、四万十層群と呼ばれるものからできています。四万十層群は、砂岩と泥岩が繰り返す地層(砂岩泥岩互層といいます)で、タービダイトという海底の土砂の流れによってできたものです。
砂岩泥岩の互層では、砂岩は固く侵食にも強く、泥岩は柔らかく侵食に弱いという性質を持っています。ですから互層が侵食を受けると、泥岩が窪んでいき、砂岩が残り出っぱていきます。互層で砂岩の比率が多い(優勢といいます)ところは侵食されにくく、泥岩の多いところは侵食を受けやすくなります。砂岩泥岩の互層の分布地域では、砂岩優勢のところは切り立った崖や険しい山に、泥岩優勢ところは開けた海岸や平野や河川の流路になるという、一般的な傾向があります。
そのようなことを考えると、南阿波サンラインの切り立った海岸線は、四万十層群でも砂岩優勢にあたるところになります。
外ノ牟岐井ノ浜では、砂岩優勢の地層を見ることができます。泥岩は10cmから3cmほどと厚さしかないの対して、砂岩は2mから20cmほどと一桁大きな厚さがあります。厚い砂岩では、5mを越えるものもあります。泥岩が少なく砂岩が非常に多いところは、砂岩ばかりで時々泥岩の切れ目ができるため、層状砂岩とも呼ばれます。千羽海岸からみえる切り立った崖は、層状砂岩が200mの断崖となって聳えています。
南阿波サンラインから離れて明丸海岸に降りて行くと、狭い海岸にでます。ここには砂泥互層だけでなく、少々変わった岩石群があります。岩石群といったのは、一種類の岩石ではなく、複数の岩石が混在しているためです。明丸海岸では、メランジュ(Mélange)と呼ばれる岩石群が見られます。
メランジュとは、日本語訳はなく、カタカナ表記のまま使われています。メランジュは、細粒に破砕された基質のなかに、もともとはまったく成因関係のない、さまざまなサイズの、さまざまな種類の岩石塊を含んでいます。メランジュ自体の成因も判明していない、このような産状を示す地質体をいいます。かつては、同様の産状のものを、サイズを問わず、すべてメランジュと呼んでいましたが、最近では地質図に表現できるサイズのものをいい、あまり小規模ものには使わなくなりました。明丸の地質体は地質図で表現できる規模なので、メランジュと呼んでいいことになります。
明丸海岸のメランジュは、赤色頁岩、層状チャート、石灰岩、玄武岩、砂岩泥岩の互層などの多様な岩石が見られます。赤、黒、緑、白など、岩石としては多様な彩りをもった地質体で、珍しく見た目もきれいな岩石となっています。
メランジュの中身を見ていきましょう。
砂岩泥岩の互層は、陸の岩石が削剥、運搬され、タービダイトで大陸斜面に運ばれて堆積したものです。タービダイトでは、粒の粗い砂岩から細かい泥岩へと並んで(級化層理といいます)一枚の地層ができます。この作用が繰り返すことで砂岩泥岩の互層ができます。周辺にたくさんある四万十層群の堆積岩と同じもの考えられます。ただし、メランジュの中の地層は、周辺の互層よりはそれぞれの層は薄く、砂岩優勢でもありません。すべて陸源の構成物からできた岩石です。泥岩は黒っぽく、砂岩は淡い灰色から暗灰色で、地味な色合いの岩石となります。
玄武岩は、枕状溶岩の形態を持っているものもあることから、海底で噴出した火山岩と考えられます。一部、海底の火山砕屑岩(ハイアロクラスタイト)や断層などで剪断、破砕された玄武岩もあります。いずれも淡い緑色で目立った色合いの岩石となっています。枕状の玄武岩や火山砕屑岩は、海山や海嶺などで起こった水中火山活動で形成されたものです。つまり、海洋プレートの最上部を構成していた岩石と考えられます。
赤色頁岩は、鮮やかな茶色で目立っています。赤色頁岩は、陸の堆積物が届かない深海底で堆積した深海粘土が固まったものです。海洋プレートの直上に時間経過にともなって堆積していったものです。このメランジュでは、玄武岩に次いで赤色頁岩が多く、目立った分布となっています。
層状チャートは、ここではほんの少ししかありませんが、透明感のある灰色の緻密な岩石です。層状チャートは、赤色頁岩と同様、深海底にたまったものです。海洋のプランクトンの遺骸が深海底にまり、珪質部だけが溶け残って形成されものです。時々プランクトンのたまらない時期があるとその間に深海粘土などを薄く挟み切れ目となり層を形成します。このようなものを層状チャートといいます。層状チャートも赤色頁岩も、起源は違いますが、共に海洋プレートに直上に溜まった深海性の堆積物です。
石灰岩は、白っぽい色で、ここには少しかありません。石灰岩は、熱帯地域の島の浅い海で、サンゴなどの生物がつくった礁が固まってできたものです。これも陸から遠く離れたところで形成された海洋の域の岩石になります。玄武岩には海洋島を構成するものもあり、そこには石灰岩が伴うこともあります。時には石灰岩が、巨大な岩体として存在することもあり、セメントの原料として、各地で採掘されています。
メランジュの構成物の起源はさまざまですが、海洋地殻やその上の深海底堆積物(海洋プレート層序と呼ばれます)、あるいは海山の一部となっていたものです。つまり海洋域の一連の構成物だったという共通性を持っています。ただし、タービダイトとは起源が違いますが。
それは次のように考えられば、理解できます。海洋プレート(海山を伴った海洋地殻)が海洋プレート層状を形成し、海溝で沈み込むみます。その時、剥ぎ取られた海洋プレート層序は、周辺のタービダイトからなる砂岩泥岩互層の中に、断層よってばらばらに砕かれながら、取り込まれていきます。これが明丸のメランジュの形成メカニズムだと考えられそうです。
明丸海岸のメランジュは、岩石の混在として付加体のダイナミズムを記録していることになります。そのダイナミズムは、鮮やかな色合いを帯びたものとなっていました。
徳島から高知にかけて、明丸のメランジュから南の海岸線は、少しなだらかになります。これは四万十層群の砂岩優勢部が終わり、砂岩泥岩の量が同等の互層となっていくためです。メランジュは、四万十層群の岩相の境界にあたっています。そこにも地質学的秘密がありそうですが、別の機会にしましょう。
南阿波サンラインから離れた明丸海岸の道は、行き止まりになっているのですが、その先には「サンラインモビレージ」というロッジがあります。行楽シーズンには多くの旅行客が訪れるようです。ここは自炊できる施設ですが、食事がでないので、私は泊まったことはありません。なかなか雰囲気のいいところです。行き止まりにある海岸なので、まるでプライベートビーチのような快適なところになりそうです。
この海岸に来るのは2度目だったのですが、泊まることはできませんでした。いずれはのんびりとロッジに泊まって、メランジュの色合いを楽しみたいものです。次なるチャンスを待ちましょう。
・大雨・
梅雨前線が少し南に下がったと思ったら、
荒れた天気になっているようですね。
北海道は梅雨ではないですが、
雨が降り続いています。
少々冷たい雨です。
場所によっては大雨となった地域あり
被害が出しています。
農家にとってはこの時期の雨は恵みの雨でしょうが、
多すぎる雨は大変です。
・後半戦・
大学の講義も後半戦になってきました。
本来であれば大学の教員は
講義と研究に精力を使うべきなのです
それ以外にも校務に多くの時間と労力ををつかっています。
私の学科では教育実習が次々とあり、
出張が毎週のようにあります。
講義を休講をできるだけ少なくしなければなりません。
教育実習の研究授業の出張指導は、
6月で前期は一段落なのですが、
9月には第二陣があります。
校務とはいえ、あまり多いと落ち着かなくなり、
体力的にも少々厳しいものがあります。
まあ、今季はなんとか乗り越えることができましたが。
徳島県海部郡の美波町から牟岐町にかけての海岸は、山が迫っており、切り立った険しい崖が続くところが多くなります。そのような険しい海岸に、内陸を走る国道55号から分かれた南阿波サンラインがあります。南阿波サンラインは、整備されているのですが、交通量が少ないので、景色を眺めながらのドライブにはいいところです。
切り立った海岸線の形成には、地質学的な理由があります。このあたりの地層は、四万十層群と呼ばれるものからできています。四万十層群は、砂岩と泥岩が繰り返す地層(砂岩泥岩互層といいます)で、タービダイトという海底の土砂の流れによってできたものです。
砂岩泥岩の互層では、砂岩は固く侵食にも強く、泥岩は柔らかく侵食に弱いという性質を持っています。ですから互層が侵食を受けると、泥岩が窪んでいき、砂岩が残り出っぱていきます。互層で砂岩の比率が多い(優勢といいます)ところは侵食されにくく、泥岩の多いところは侵食を受けやすくなります。砂岩泥岩の互層の分布地域では、砂岩優勢のところは切り立った崖や険しい山に、泥岩優勢ところは開けた海岸や平野や河川の流路になるという、一般的な傾向があります。
そのようなことを考えると、南阿波サンラインの切り立った海岸線は、四万十層群でも砂岩優勢にあたるところになります。
外ノ牟岐井ノ浜では、砂岩優勢の地層を見ることができます。泥岩は10cmから3cmほどと厚さしかないの対して、砂岩は2mから20cmほどと一桁大きな厚さがあります。厚い砂岩では、5mを越えるものもあります。泥岩が少なく砂岩が非常に多いところは、砂岩ばかりで時々泥岩の切れ目ができるため、層状砂岩とも呼ばれます。千羽海岸からみえる切り立った崖は、層状砂岩が200mの断崖となって聳えています。
南阿波サンラインから離れて明丸海岸に降りて行くと、狭い海岸にでます。ここには砂泥互層だけでなく、少々変わった岩石群があります。岩石群といったのは、一種類の岩石ではなく、複数の岩石が混在しているためです。明丸海岸では、メランジュ(Mélange)と呼ばれる岩石群が見られます。
メランジュとは、日本語訳はなく、カタカナ表記のまま使われています。メランジュは、細粒に破砕された基質のなかに、もともとはまったく成因関係のない、さまざまなサイズの、さまざまな種類の岩石塊を含んでいます。メランジュ自体の成因も判明していない、このような産状を示す地質体をいいます。かつては、同様の産状のものを、サイズを問わず、すべてメランジュと呼んでいましたが、最近では地質図に表現できるサイズのものをいい、あまり小規模ものには使わなくなりました。明丸の地質体は地質図で表現できる規模なので、メランジュと呼んでいいことになります。
明丸海岸のメランジュは、赤色頁岩、層状チャート、石灰岩、玄武岩、砂岩泥岩の互層などの多様な岩石が見られます。赤、黒、緑、白など、岩石としては多様な彩りをもった地質体で、珍しく見た目もきれいな岩石となっています。
メランジュの中身を見ていきましょう。
砂岩泥岩の互層は、陸の岩石が削剥、運搬され、タービダイトで大陸斜面に運ばれて堆積したものです。タービダイトでは、粒の粗い砂岩から細かい泥岩へと並んで(級化層理といいます)一枚の地層ができます。この作用が繰り返すことで砂岩泥岩の互層ができます。周辺にたくさんある四万十層群の堆積岩と同じもの考えられます。ただし、メランジュの中の地層は、周辺の互層よりはそれぞれの層は薄く、砂岩優勢でもありません。すべて陸源の構成物からできた岩石です。泥岩は黒っぽく、砂岩は淡い灰色から暗灰色で、地味な色合いの岩石となります。
玄武岩は、枕状溶岩の形態を持っているものもあることから、海底で噴出した火山岩と考えられます。一部、海底の火山砕屑岩(ハイアロクラスタイト)や断層などで剪断、破砕された玄武岩もあります。いずれも淡い緑色で目立った色合いの岩石となっています。枕状の玄武岩や火山砕屑岩は、海山や海嶺などで起こった水中火山活動で形成されたものです。つまり、海洋プレートの最上部を構成していた岩石と考えられます。
赤色頁岩は、鮮やかな茶色で目立っています。赤色頁岩は、陸の堆積物が届かない深海底で堆積した深海粘土が固まったものです。海洋プレートの直上に時間経過にともなって堆積していったものです。このメランジュでは、玄武岩に次いで赤色頁岩が多く、目立った分布となっています。
層状チャートは、ここではほんの少ししかありませんが、透明感のある灰色の緻密な岩石です。層状チャートは、赤色頁岩と同様、深海底にたまったものです。海洋のプランクトンの遺骸が深海底にまり、珪質部だけが溶け残って形成されものです。時々プランクトンのたまらない時期があるとその間に深海粘土などを薄く挟み切れ目となり層を形成します。このようなものを層状チャートといいます。層状チャートも赤色頁岩も、起源は違いますが、共に海洋プレートに直上に溜まった深海性の堆積物です。
石灰岩は、白っぽい色で、ここには少しかありません。石灰岩は、熱帯地域の島の浅い海で、サンゴなどの生物がつくった礁が固まってできたものです。これも陸から遠く離れたところで形成された海洋の域の岩石になります。玄武岩には海洋島を構成するものもあり、そこには石灰岩が伴うこともあります。時には石灰岩が、巨大な岩体として存在することもあり、セメントの原料として、各地で採掘されています。
メランジュの構成物の起源はさまざまですが、海洋地殻やその上の深海底堆積物(海洋プレート層序と呼ばれます)、あるいは海山の一部となっていたものです。つまり海洋域の一連の構成物だったという共通性を持っています。ただし、タービダイトとは起源が違いますが。
それは次のように考えられば、理解できます。海洋プレート(海山を伴った海洋地殻)が海洋プレート層状を形成し、海溝で沈み込むみます。その時、剥ぎ取られた海洋プレート層序は、周辺のタービダイトからなる砂岩泥岩互層の中に、断層よってばらばらに砕かれながら、取り込まれていきます。これが明丸のメランジュの形成メカニズムだと考えられそうです。
明丸海岸のメランジュは、岩石の混在として付加体のダイナミズムを記録していることになります。そのダイナミズムは、鮮やかな色合いを帯びたものとなっていました。
徳島から高知にかけて、明丸のメランジュから南の海岸線は、少しなだらかになります。これは四万十層群の砂岩優勢部が終わり、砂岩泥岩の量が同等の互層となっていくためです。メランジュは、四万十層群の岩相の境界にあたっています。そこにも地質学的秘密がありそうですが、別の機会にしましょう。
南阿波サンラインから離れた明丸海岸の道は、行き止まりになっているのですが、その先には「サンラインモビレージ」というロッジがあります。行楽シーズンには多くの旅行客が訪れるようです。ここは自炊できる施設ですが、食事がでないので、私は泊まったことはありません。なかなか雰囲気のいいところです。行き止まりにある海岸なので、まるでプライベートビーチのような快適なところになりそうです。
この海岸に来るのは2度目だったのですが、泊まることはできませんでした。いずれはのんびりとロッジに泊まって、メランジュの色合いを楽しみたいものです。次なるチャンスを待ちましょう。
・大雨・
梅雨前線が少し南に下がったと思ったら、
荒れた天気になっているようですね。
北海道は梅雨ではないですが、
雨が降り続いています。
少々冷たい雨です。
場所によっては大雨となった地域あり
被害が出しています。
農家にとってはこの時期の雨は恵みの雨でしょうが、
多すぎる雨は大変です。
・後半戦・
大学の講義も後半戦になってきました。
本来であれば大学の教員は
講義と研究に精力を使うべきなのです
それ以外にも校務に多くの時間と労力ををつかっています。
私の学科では教育実習が次々とあり、
出張が毎週のようにあります。
講義を休講をできるだけ少なくしなければなりません。
教育実習の研究授業の出張指導は、
6月で前期は一段落なのですが、
9月には第二陣があります。
校務とはいえ、あまり多いと落ち着かなくなり、
体力的にも少々厳しいものがあります。
まあ、今季はなんとか乗り越えることができましたが。
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