2010年2月15日月曜日

62 宇治:幻の扇状地

 宇治川は、地形や地質から見ると不思議なことろがいくつかあります。その不思議さを考えてみました。宇治は中学生時代からなじみのあるところです。自転車で通った道は、起伏の激しいもので、宇治橋で一息ついていました。その険しさは、今は亡き河川の扇状地だったのではないかと思い至りました。それが不思議さの一つの解決案となるか知れません。

 京都で生まれ育った私は、木津川や琵琶湖で泳ぎました。両親が一度海に連れて行ってくれた記憶がありますが、その記憶は薄れています。小学生のころ、水泳教室に少しだけいきましたが、遠くて通うのが大変で、長続きしませんでした。また、小学校5年生のときに学校にプールができたのですが、結膜炎で2年間プールにはいれず、結局泳ぎを覚えずに中学生になりました。中学生の夏休みには結膜炎も完治し、プールにもいけるようになりましたが、中学校にはプールがありませんでした。
 そこで、中学生になって、泳ぐ楽しさを知るために、町のプールに通いました。我が町にはプールはありませんが、隣町の宇治には市民プールがありました。料金は覚えていませんが、安くて時間制限なく泳ぐことができるプールでした。そこが一番近くて安いプールでした。近いといっても片道10kmほどの道のりを、夏休みの間中、友人と自転車で週に2、3度はでかけました。
 尾根のようなうねりをいくつか越えていく道でした。自宅から自転車で結構険しい道を通った記憶があります。その道の途中で宇治川を通りました。宇治川を宇治橋で渡りましたが、暑い夏でも、橋の上では涼風が通おり、ほっとできるところであることを覚えています。
 その宇治橋に、昨年の夏過ぎに何年かぶりにいきました。子供たちをつれて、平等院とその周辺の観光でした。昼食は、宇治橋の少し上流側の堤防の木陰で食べました。その日も天気がよく暑かったのですが、木陰は涼風が吹いていました。また、橋の袂の茶店の日陰にソフトクリームを食べている子供たちと、川面を眺めながら涼しい川風が吹かれていました。
 宇治橋は、宇治川が山間部から平野部にでるところにつくられたものです。宇治川の上流部は、瀬田川と名前を変え、琵琶湖が瀬田川の源流となります。瀬田川が宇治川と名前と変えるのは、喜撰山(416m)と大峰山(506m)、荒木山(472m)などの山並みの中です。このあたりは、非常に急峻な地形の中を、宇治川(ここでは瀬田川と宇治川を区別せずに宇治川と以下表現します)は、流れています。
 宇治川の少し南東側には、北東から南西に向かって大石、龍門、小田原、禅定寺、岩山、郷之口という集落が続く一帯(以下、宇治田原盆地と呼びます)は、緩やかな低地の地形があります。通常このようななだらかな地形に変化しているところは、地質を反映していたり、大きな断層があったりします。しかし、ここには大きな断層は推定されていませんし、地質の連続性も途切れていません。なぜ、このなだらかな地形を宇治川が流れてないのかが、不思議です。
 宇治川で不思議なことは、もう一つあります。宇治川の周辺の山並みは高いので、深く切れ込んだ河川です。本来であれば、急峻な河川には、上流により急峻な山並みがあったり、広い流域があり豊富な水量が必要になります。つまり、河川の浸食作用が強く働く必要があります。
 これほど急峻な地形なのですが、宇治川の源流部は琵琶湖で、その湖面の標高は84mしかありません。それほど琵琶湖の水位は高くありませんが、充分な水量はあります。そして、宇治の平等院あたりで平野部で標高は15mまで下がります。標高差は70m近くありますが、もともと琵琶湖の水位が低いので、こんな急峻はところを浸食して、ここを流れる必然性がわかりません。
 また、宇治川には扇状地などの河川が平野にでたところにできる地形が見られません。これも、不思議です。
 宇治川の周辺の地質は、丹波帯に属しています。丹波帯とは、付加体で形成された地層で、主に中生代ジュラ紀中期から後期の堆積岩(泥岩や砂岩)からできています。その地層の中に、古生代ペルム紀から中生代三畳紀のチャートがブロック状に取り込まれています。この周辺の地質体が、沈み込み帯で形成された証拠となるものです。
 丹波帯の地層が、宇治川の両側に継続して分布しています。特に、宇治川の流域には、砂岩やチャートなどの硬い岩石が分布しているところが、多くなっています。これらの石は硬く緻密で、浸食には強い岩石です。そのため、急峻な地形になっているのだと考えられます。
 先ほどのなだらかな宇治田原盆地の地形は、どうも基盤の地質ではなく、周囲の置かれた地質環境によるものではないかと考えられます。
 宇治の平野や京都の盆地などは、新生代の中新世から更新世まで、何度も水没しています。瀬戸内海から大阪平野、京都盆地、奈良盆地、伊勢湾まで低地帯が断続的に続いています。そのような地域に、海水が浸入したり、淡水がたまり、堆積物をためていたことが、堆積岩から再現されています。
 さて、ここからは根拠のない、地形から見た私の推測です。
 地質図をみると、なだらかな宇治田原盆地には、鮮新世と更新世の堆積物が分布しています。そこの地形とみると、河川が山間部から平野部に出たときできる、扇状地や氾濫原のような地形やそのくぼ地でできた池が多数できています。そしてその先端は、元は巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれた平野となります。更新世にはこの当たりまで海が進入し、そこに河川が流れ込んでいたのではないかと考えられます。
 ですから、もともと宇治川は、この宇治田原盆地を流れていたのでないかと推測されます。ところが、何らかの原因によって、大石あたりが持ち上げられて、琵琶湖をあふれが水が、別の出口を求めたのでしょう。その弱線(地形的に弱く、切れ込んだところ)が、現在の急峻な地形の中にあったため、今の宇治川が形成されたと考えられます。その弱線の形成のメカニズムは、地形からは読み取れません。もしかすると、どこかの地理学者や地質学者がすでに解明しているかもしれませんが、資料を見つけることができませんでした。
 私、中学生の夏休みに自転車で通った道は、宇治田原盆地の河川の出口にある扇状地の先端に当たるところだったのかもしれません。ですから、私は今はない旧河川の扇状地の先端から、現在の扇状地のない河川へと走っていたのかもしれません。その扇状地のひだが、自転車には険しい高低差のある道だったのかもしません。
 私の息子たちは、そんな道を電車であっという間に通り過ぎました。私だけが、子供のころの感慨にふけっていました。

・いつもの冬・
暖冬だと思いながら、2月も半ばになると、
北海道も例年通りの冬となっているようです。
寒い日もあり、雪もそこそこ降り積もました。
今では、積雪に道が狭く、危険な状態でもあります。
でも、日は長くなりました。
いつもは早朝暗い中を歩いてくるのですが、
どんなには早く出ても、
空は明るくなってくるようになって来ました。
寒い日もありますが、
暖かい日は、春も予想させる暖かさに感じます。

・就職戦線・
大学の教員は成績の提出も終わり、
一般入試も終わり、ホット一息ついています。
しかし、3年生は会社説明会を受けています。
我が大学でもいくつもの説明会が開催され、
スーツ姿の学生を多数見かけます。
就職戦線はなかなか厳しいようですが、
なんとか社会人として、
希望の道を見つけてもらいたいものです。
4年生は、もう1月ほどで大学を巣立ちます。
私のゼミの学生は、教員志望が多く、
非常勤の教員をしながら、夏の教員試験に臨みます。
彼らの就職戦線は、一般のものと少し違いますが、
厳しさは同じでしょう。